〈解放5年、同胞新聞事情−A〉 「民衆新聞」と「解放新聞」 |
弾圧をくぐり抜けて 今回は、現在の「朝鮮新報」の前身である「民衆新聞」「解放新聞」の発行についてみる。
「民衆新聞」創刊号(1945年10月10日付)は手元にないが、特集号(同年10月15日付)では、発行所が東京都小石川区白山御殿町106、民衆新聞社で、編集および発行人は金桂淡となっている。朝鮮語、謄写版。ある資料に所在地が東京都淀橋区戸塚となっているのがあるが14号(46年3月25日付)である。創立当初、社長は金天海、主筆は金斗鎔。 「民衆新聞」特集号では、朝聨創立大会に関することと植民地時代日帝の手先となった「一心会」に対する批判、日本の各刑務所から出獄した朝鮮政治犯諸氏の名簿などが注目される。朝聨結成大会に関して「まさに歴史的大会である」と評価して、それに祝意を送っている。朝聨の組織的性格については、大衆団体ではあるが「事業団体」とだけ見るのは無知蒙昧な所見であり、「政治的に認識」すべきと主張している。また、「過去の祖国への反逆者、戦争犯罪者は機関として駆逐すべき」と明確に指摘し、日本帝国主義の手先、民族反逆者の追放を促している。朝聨の結成大会でこの新聞が配布されたとき、大きなざわめきと「一心会」など民族反逆分子の追放が叫ばれたことは言うまでもない。朝聨結成準備委員であった権赫周(権逸、のちの民団団長)はその場で追い出された。 「民衆新聞」4号から13号までのタイトルは「朝鮮民衆新聞」となっているが、14号(活版印刷)からもとの名前に戻る。「民衆新聞」は朝聨の機関紙ではなかったが、1946年5月から朝聨総本部会館(東京都芝区田村町1−3)の2階に所在したことは朝聨と強いつながりがあったことを意味する。
「民衆新聞」は、46年8月15日から大阪で発行されていた「大衆新聞」(編集発行人、金元均)と合同して「ウリ新聞」と改題して発行された。「朝鮮新報」の発行番号は「民衆新聞」の29号までを含まず「ウリ新聞」から起算しているが、それは当時の同胞運動で統一的指導機能を持つ新聞の発行という認識からだったと思える。 「ウリ新聞」は2号まで出して、46年9月1日からは「解放新聞」と改題した。その後、57年1月1日に「朝鮮民報」と改題するまで「解放新聞」として発行される。「解放新聞」としたのは、当時の複雑な内外の情勢の中で「解放」人民の立場で活動する姿勢と方向性を明らかにするためであった。発行所は、1948年から東京都中央区日本橋本町1−3に移転している。「解放新聞」は、5日刊2ページで出し、48年8月31日付から3日刊、49年5月25日付から隔日刊となった。 当時「解放新聞」の編集発行に携わった朴在魯氏(現総連中央顧問)から貴重な体験談を聞いたことがある。新聞の発行に欠かせない、情報の収集、編集、検閲、印刷などはほんの何人かでやったという。隔日刊で発行したときには、一日で記事を書いて編集をし、後一日で版を組んだという。版を組むのに9〜10時間かかったという。また検閲も大変であった。GHQの「解放新聞」に対する検閲は特別厳しかったという。「解放新聞」が検閲に行くと、なんだかんだと口実をつけて「ホールド」(HOLD=保留)したという。あまりにも「ホールド」をするので、親米親日的で親李承晩的な新聞だといわれていたある新聞の社説を丸写し、GHQに提出するとそれもまた「ホールド」されたとのことだ。同じ記事であるのになぜオーケーしないのかと強く迫ったという。当時の新聞の検閲制は、待つ時間も長く審査にも時間もかかり、複雑であったという。人員も経営も検閲も大変であったために、当時新聞社で働くことを「地獄の3丁目」といっていたそうだ。なお「解放新聞」の事前検閲は、GHQが1948年8月25日1時から解除すると通告があった。それ以降は、事後検閲になる。
「解放新聞」は、朝鮮民主主義人民共和国の創建(48年9月9日)後、朝鮮での動向とともにとくに各地の祝賀行事、国旗掲揚闘争、慶祝団事業などを大々的に報じた。1949年に入って「朝鮮民主主義人民共和国に直結しよう」と全面的に主張し、2月の朝聨第17回中央委員会の報道をはじめ、金日成主席を唯一の指導者と仰ぎ、朝鮮の政権を朝鮮人民の真の政権とみなして活動するように呼びかけている。 「解放新聞」は、朝聨の強制解散後にも続刊し、強制解散に反対する報道を続けた。1950年6月25日の朝鮮戦争勃発後は、米国の侵略戦争に反対して同胞たちに立ち上がるよう呼びかけた。 しかし、日本中立化政策の建前まで捨て米国の軍事基地化、後方基地化を進めた日米当局は、労働運動、民主化運動を抑圧し、共産党弾圧(レッドパージ)・「赤旗」の停刊の流れの中で、50年8月2日付、418号をもって「解放新聞」を停刊させた。大変な努力を経て復刊第1号は、52年5月20日付から発行することができた。 「解放新聞」は、解放直後の在日朝鮮人の生活と運動でもっとも強力な報道手段であったといえよう。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長) [朝鮮新報 2006.3.27] |