〈夢・挑戦−在日スポーツ人〉 在日Jリーガー、J2・ベガルタ仙台 梁勇基さん |
名古屋グランパスエイトの安英学選手(27)、サンフレッチェ広島の李漢宰選手(23)に次いで、在日同胞Jリーガーから3人目の朝鮮代表が誕生した−。J2ベガルタ仙台の梁勇基選手(24)。1999年、大阪朝鮮高級学校サッカー部の司令塔として同校をインターハイ初出場へと導き、阪南大学サッカー部では関西リーグで02、03年連続MVPに輝いた。しかし、Jリーグ入団、朝鮮代表への道は敷かれたレールの上をただ歩いてきた結果としてあるのではない。数々の苦難に打ち勝ってきた努力があってこその事だ。目標は「J1昇格」「代表で結果を残すこと」と意欲を語る。 外見は、まだあどけなさが残るサッカー少年といった感じだろうか。しかし、試合が始まるとその表情は一変する。中盤を操る彼の両足からは、自在にパスが繰り出される。朝鮮代表に初選出された時、日本のメディアは彼を「北朝鮮の司令塔」と報じた。 代表初試合となった第4回東アジア大会。中盤のトップ下として2試合に出場し、マカオ戦で3得点、南朝鮮戦で1得点をマーク。チーム内での存在を存分にアピールした。チームメイトらは、半信半疑だったその実力を認めた。 代表として、初めてピッチに立った時の心境をこう語る。「『愛国歌』が流れた時は本当に鳥肌がたった。国の代表なんだと心の底から実感した」。 梁選手は、代表チームに合流した時から、しっかりとチームの空気を肌で感じ取っていた。 「『在日』選手ということで特にハンデはなかった。安英学先輩、李漢宰らの活躍もあって好意的に接してくれた。かといって100%の信頼はなかった。だから試合で結果を出そうと心に誓った。今はみんなと仲がいい。朝鮮だけに限らず、結果を出さないと信頼されないっていうのはどこの国家代表選手も同じだから」
代表チームの印象については、「身体能力が高く、自分がいうのもなんだが、これから伸びる可能性のあるチームだと感じた」。 大阪生まれの在日3世。泉州朝鮮初級、南大阪朝鮮中級でサッカーに親しんだ。プロになりたいと思い始めたのは、大阪朝高サッカー部に入ってからだ。 当時、同校サッカー部の崔徳柱コーチ(南出身)と金正海監督(現サッカー部部長)から、「サッカーに対する理論や戦術、そして精神面、いろんな部分で鍛えられた」と振り返る。 インターハイ1回戦では、東京代表の帝京高校にPK戦のすえ敗れた。「全国の舞台に立ったことで、自分たちもこれぐらいの位置にいるんだと感じた。サッカーで力を試したいという気持ちが強くなった」 非凡なサッカーセンスは関係者から高い評価を受け、阪南大学では2年からレギュラーの座を不動のものにした。02年関西大学春季リーグで優勝、得点王、03年秋季リーグ優勝、アシスト王に輝いた。両年にMVPになるなど、まさに「スター街道まっしぐら」。 大学での活躍でプロ行きが確実視されていたが、なかなか話が舞い込んでこなかった。
「正直不安な時期だった。親には心配かけて申し訳なく思った。ベガルタ仙台のテストを受けて、最終的には拾ってもらったって感じだった」 入団後、いきなり32試合に出場し2得点。1年目とは思えない堂々のプレーぶりで、今では外せない主力へと成長を遂げた。 2年目となった今季は4位。J1昇格となる3位を逃した。「とにかく悔しかった。J1だと注目度がはっきりと違うから」。 試合出場データを見ると、チームでの存在がいかに大きいかが浮き彫りになる。今シーズンの出場数は39試合で6得点、アシスト4。6得点はチームで4位の成績だ。「毎試合、得点しようと心に決めて試合に臨んでいる」。 一方、梁選手の実力を評価する記事が05年2月のサンケイスポーツに載った。見出しは「北朝鮮隠してた!? 第3の在日Jリーガー、梁勇基」。 記事の内容は、U−20日本代表の宮崎合宿最終日でベガルタ仙台が練習試合の相手をした時の話。 日本の怪物FW平山相太選手(ヘラクレス・アルメロ)の豪快なヘッドで0−2となったその直後、梁勇基選手がピッチに送り込まれると流れがガラリと変わった。トップ下で攻撃を指揮。2得点を演出し、平山の合宿初得点の余韻を打ち消したとの内容だ。 「国家代表」への思いを馳せていた梁選手。今でこそ活躍を見せるものの、代表入りするまでにはさまざまな悩みもあった。 大学時代、同年代の朝鮮代表として呼ばれた話があったが断った。 90年以降、朝鮮代表が国際舞台から長らく遠ざかっていた時期、日本ではその現状についてあまり知られることがなかった。そうしたことなどから、韓国代表への道を選択しようとする朝鮮学校卒業生も少なくなかった。「サッカー選手」として純粋に「うまくなりたい」「もっとレベルの高い所でサッカーをしたい」という向上心からで、梁選手も同じような心境だったという。 W杯02年大会で韓国がベスト4入り。「当時は朝鮮サッカーの状況が見えなかったこともあったし、正直、韓国代表の姿を見て強い憧れがあった」。 しかし、去年のW杯アジア最終予選。安英学、李漢宰選手らの活躍に触発された。「昨年の2月9日、日本戦をテレビで見ていた。安英学先輩と李漢宰の姿をしっかり目で追っていた。いつかはあそこに立ちたいという気持ちの方が強くなった」と、当時の複雑な心境をのぞかせた。 そんな時、朝鮮代表入りを現実のものへと近づけてくれたのがほかならぬ宮城県内の同胞だった。仙台に来てからは「いろんな同胞たちにお世話になった」。 県内の同胞がリーグ戦のプレーをビデオ撮影、編集したテープを、在日本朝鮮人蹴球協会が本国に送ったことがきっかけとなった。梁選手のプレーが朝鮮サッカー協会の目に留まったのだ。 召集の打診を受けた梁選手は、佳境に入っていた大事なリーグ戦を離れて代表入りを選択した。「次はいつになるかわからないし、貴重なチャンスをものにしたかった」と代表に賭けた強い気持ちを語る。 これからはチームの中心として「まずはJ1昇格」、そして国家代表でのレギュラーポジションの獲得を目標に置いている。 「活躍することで協力してくれた同胞や多くのサポーターに喜んでもらいたいし、プロ、代表を目指す在日選手がどんどん出てきてくれればうれしい。いずれ安英学先輩、李漢宰と一緒にプレーしたい」 狙うは10年のW杯・南アフリカ大会。W杯アジア予選から「司令塔・梁勇基」の姿が見られることを期待したい。(金明c記者) [朝鮮新報 2006.1.5] |