朝鮮解放60年−日朝つなぐ人々−C 「朝鮮女性と連帯する日本婦人連絡会」代表 清水澄子さん |
清水澄子さん(78)は、99年と04年に女性ばかりのピースライン訪朝団を率いて訪朝、女性たちとの連帯集会を平壌で開いた。「北朝鮮脅威論」「経済制裁論」が圧倒する当時の世論。女性たちを乗せた「万景号92」が新潟を出航する際は右翼の嫌がらせに合い、騒然となった。それに一歩も怯まぬ女性たちの平和と日朝の国交正常化を求める力強い声は、朝鮮の人々の心を熱く揺さぶった。 02年の9.17以降、日本各地の朝・日女性たちの要請を受けて、日朝関係をめぐる講演会にひっぱりだこ。 札幌や宮崎に飛び、大阪や山口へ。月平均すると10回以上の講演をこなす日々だ。「本業」は「I女性会議議長」であり、こちらの忙しさも半端じゃない。「何だか参院時代よりも忙しくなって。東京にいる時も、勉強会、会議、打ち合わせに出たり、家でゆっくりする間もありません」と豪快に笑う。 文字通り体を張って、東アジアの平和と日朝国交正常化の実現に取り組む。その一方で、有事体制化が進む日本で女性の権利を守る厳しい闘いの最前線に立つ。 清水さんの講演は、半世紀以上の女性運動の経験を豊かに語って、人気が高い。 戦前の女性べっ視の時代。結婚も親が決め、女が職業を持つことなど考えられなかった。福井生まれの清水さんも親が決めた2度の結婚を破棄し、労働運動に飛び込んだ。その後、敗戦の年に結ばれた夫は、農村女性の待遇改善や保育所建設に奔走する清水さんの良き理解者として、妻の苦闘を傍らで支えた。65年に東京に移った時、夫も関東の職場に移った。
「家事、子育ての一切を分担してくれた。息子が生まれた時はオムツを洗って、ベランダに干してくれて。近所の好奇な目が気になって、止めようとしたら、『子育ては2人でやるもんだよ』と」 自らの力で切り開いてきた道。その人間味あふれる体験談は、苦難の人生を歩んだ同胞女性たちの人生に重なる。 「女性運動の先駆者として、ローザ・ルクセンブルクはじめ欧米の女性たちのことは知っていたが、隣国については全く無知だった」と率直な反省の弁。 「72年、訪朝し、朝鮮女性の民族解放闘争の歴史を初めて知った時には、心臓の止まるような衝撃を受け、目を開かされた。朝鮮革命博物館で日本の植民地支配がいかに過酷なものだったかを実感し、同時に長期にわたった抗日武装闘争や民族の抵抗運動の激しさを知らされた」 この触れあいが、その後の朝鮮問題への献身的な取り組みの原点になった。記憶に新しいのは、95年の阪神大震災の東神戸初中(当時)の校舎再建と伊丹初級の防音装置設置に日本政府から補助金が出るよう尽力したこと。 「震災の様子をテレビで見て、朝鮮学校のことが心配でならなかった。政府の災害復旧対策の対象からはずされていると思ったから。すぐ現場に飛んで『絶対に諦めてはダメ。ダメでもともとなんだから』とオモニたちを励ました」 「ダメもと」。女性問題と格闘し、長い茨の道を歩む清水さん自身を、支え続けた言葉でもある。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.7.12] |