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日本政府の大罪 遺骨は語る〈13〉 茨城・平和台霊園

日立市平和台霊園の一番見晴らしのよい場所に建立された納骨塔

 日本有数の工業地帯として発展した茨城県日立市。太平洋戦争末期、軍需産業の拠点の一つであった同市は、爆撃、艦砲射撃、焼夷弾攻撃にみまわれた。全市街地の約7割が焦土と化し、壊滅的な打撃を受け、1500人を超える市民の命が奪われた。

 その中には、1939年から「募集」によって日本に連れて来られ労働を強いられた朝鮮人も含まれている。

 茨城県の数ある強制連行事業所(羽田精機竜ヶ崎工場、日立鉱山、神崎組、鷹峰鉱山、常磐南部炭田、常磐炭鉱石岡鉱業、東邦炭鉱、日立製作所水戸工場、日本通運土浦支店など)の中でも、日立鉱山には4〜5000人が連行され、6〜700人が犠牲となった。ほとんどが無縁仏になっている。日立鉱山側が艦砲射撃などを口実に名簿を紛失したと主張したためだ。

24人分の遺骨が一つの箱に

 当時の実態を知る地元の在日同胞1世たちが中心となり1979年7月24日、平和台霊園(茨城県日立市)に「茨城縣朝鮮人納骨塔」が建立された。ここには52人分の遺骨が安置されている。499ある県内の寺を対象に遺骨返還のための調査を行ったが、「先代がかわり、わからない」などの理由で3人の遺骨しか探し出せなかった。残り49人分は、解放直後から34年間日立市の本山寺に預けられていた。当時の住職が、寺の前にゴミのように捨てられていた朝鮮人の遺骨を見つけ、安置したのだという。また、茨城で戦後亡くなった数人分の朝鮮同胞の遺骨も安置されている。さらに、24人分の遺骨がひとつの箱に「まとめられて」いるものも含まれている。

「現場が風化しないように」

24人分の遺骨が一つの箱に「まとめられ」ている

 慰霊塔建立当時、在日同胞有志らで作られた茨城県慰霊塔管理委員会。1988年に1世から2世へと受け継がれ、「現場が風化しないように」と説明会などの活動も行っている。これからも「現場を守り続けたい」としながら、大切なのは「遺骨を遺族のもとに返す」ことだと強調する。管理委員会の張永祚事務局長は「過去の歴史をきちんと伝えていくだけではなく、それをどう受け継いでいくかが重要。そのためには2、3、4世が1世の苦難の歴史を語り継いでいかなければ」と話す。

 12日には「祖国解放60周年記念茨城県朝鮮人犠牲者慰霊祭(慰霊塔管理委員会主催)」が平和台霊園で行われた。異国の地で亡くなった同胞たちを供養し、迫害と虐待を受けた先人の苦しみを決して忘れることなく「植民地犠牲者」の子孫、当事者としての自覚を改めて肝に銘じた。また、慰霊塔管理委員会に3世も網羅し、引き続き活動していくことも決められた。(李東浩記者)

[朝鮮新報 2005.8.16]