〈日弁連、日本政府など勧告4つのケース〉 未だ残る謝罪、補償の義務 |
8月15日、朝鮮は光復60周年を迎える。朝鮮では、日本帝国主義の植民地支配から祖国を解放するために遊撃隊闘争を繰り広げてきた金日成主席が凱旋した日と位置づけられている。しかし、光復直後、38度線によって南北に分断された。光復60年は分断60年の歴史でもある。日本の植民地支配下で朝鮮人たちは強制的に日本に連れてこられ、炭鉱やダムなど危険かつ過酷な場所で労働を強いられた。日本弁護士連合会が、本人または遺族の人権救済申し立てを受け勧告書を出した4つのケースを紹介する。小泉首相、相手企業らにあてた勧告書で日弁連は、真相究明、謝罪、補償を求めている。 「1匹や2匹くたばっても」(足尾銅山で強制労働、鄭雲模さん)
1921年11月11日、忠清北道清州郡枯倉面新平里で次男として生まれた鄭雲模さん(83)は、42年2月のある日、突然面事務所に呼び出された。「日本に行って2〜3年働いてこい」。17歳の時に父親を亡くした。兄は咸鏡南道に出稼ぎに、姉はすでに嫁いでいた。 母親の面倒を見るのは自分しかないと拒否したところ、激しく殴打された。翌早朝、母とともに逃げようとしたが、自宅周辺は警官に取り囲まれていた。 強制的に清州に連れて行かれ、真冬だというのに薄い作業着に着替えさせられ釜山に向かった。船に乗せられ、到着したのは下関だった。 栃木県の古河鉱業足尾鉱業所に連行された。そこで44年3月まで強制労働に従事させられ、奴隷的虐待を加えられた。 あまりにひどい仕打ちに、日本人監督らにたびたび抗議したが、そのたびに殴る蹴るの暴行を受けた。「貴様のような半島人の1匹や2匹、くたばってもすぐに補充できるんだ」「てめえら1匹三銭で1000人でも2000人でも引っ張ってこられるんだ」などと言われたという。 家に仕送りをしなければならなかったのに、「賃金をくれ」と言ったらダメだと言われた。一応給料日はあるものの、タバコ代だと言ってくれる小銭のほかは債券を買わされ、手元には一銭も残らなかった。 しかし、鄭さんを助けたのも日本人だった。44年4月3日、「石川」という組長の手ほどきで鄭さんら6人は足尾銅山から逃げ出した。その後、日本で結婚。故郷に戻ることはままならなかった。 鄭さんは、20年以上にわたって同胞や日本人に自分の体験を語り続けている。 鄭さんは97年5月9日、日弁連に人権救済申し立てを行ったが、同連合会は02年10月25日付で、小泉首相と古河鉱業の後進である古河機械金属に真相究明と謝罪、補償を求める勧告書を送った。 飢餓状態で山道10往復(平岡、飯島発電所で労働、金一洙さん) 1994年6月に死去した金一洙さんは、長野県下伊那郡天竜村にある平岡発電所の熊谷組の建設現場に連行され、光復を迎える45年8月15日まで働かされた。 慶尚南道固城郡東海面陽千里生まれ。貧しい農家の次男であった。青年期は旧「満州」や朝鮮北部に職を求めて転々としたが、故郷へ戻った43年2月、21歳の時に熊谷組の「募集」により渡日。この月の12日に平岡発電所に連行された。 主な作業は掘削と土の運搬。山の中腹に作られたトロッコ道を、日に十数回往復したという。常に飢餓状態で気力がなく、トロッコを寝かせて土を捨てる際、右足に大けがを負った。坂道で早く押さないと現場監督にたびたびこん棒で殴られた。その後遺症に死ぬまで悩まされた。 44年5月、悪条件により平岡発電所の工事は中断。金さんらは同じ熊谷組の建設になる飯島発電所水路工事現場に移され、強制労働を強いられた。 日給は2円50銭との約束だったが、タバコと食事代で60銭を引かれ、残りの1円90銭は熊谷組が「保管」したという。 金さんがいた飯場では、2人の同僚が死んだ。大邱出身だという「大山」は、逃げようとして捕まり、拷問のすえ、殺された。もう一人はトンネル内で機関車にひかれて死んだ。 犠牲者を弔おうと同郷の者たちが集まったところ、シェパードを連れた舎監がムチを振りかざして追い払った。そのため、金さんは亡がらを担いで小高い山の上に葬った。 金さんは48年間、自らの体験を語ろうとしなかった。しかし、92年12月5日、朝鮮人強制連行名簿の一般公開の場で金さん本人の名前が発見されたことから、93年4月、平岡ダムを訪ねた。 94年に亡くなった金さんに代わって人権救済申し立てをしたのは3人の息子である。98年1月5日の申し立てに対して、日弁連は02年10月30日付で、小泉首相と熊谷組に勧告書を送った。 「害虫としか思わなかった」(治安維持法違反で懲役、徐元洙さん)
徐元洙さん。1924年、慶尚南道金海で生まれた。舞鶴鉄道の鉄道工事現場で働いていた父を頼って33年2月、母と共に8歳で渡日。京都・綾部の鉄橋の下の飯場で荷を下ろした時の寒々とした光景が、70年経った今でも目に焼きついている。再会を果たした父の「ネクタイのようにやせ細った、みすぼらしい姿」にショックを受けて、口も利けなかった。それ以来、被植民者としての苦難が始まった。学校に行っても「チョーセン」となじられ、成績がよくても就職すらできない鬱屈とした日々を生き抜いた。 「日本帝国主義者は当時もいまでもこう言っている。『朝鮮人のために鉄道を敷いてやった』『朝鮮の発展のためにしてやったんだ』とね」。朝鮮人強制連行を否定、隠ぺいし、記録から抹消しようとする不気味な動きが日本列島に渦巻く。 「歴史をパッチワークのように都合よく書き替えてはならない」。 徐さんは44年8月、治安維持法違反で捕まり、神戸刑務所に収監。45年2月に神戸地裁で懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けた。「日本敗戦の半年前や。米軍が毎夜、空爆ならぬ空襲をしかけてくる。何十機も連なって襲来し、焼夷弾を落とす。大阪も神戸も西宮、尼崎もみんな焼野原になった」。神戸刑務所が空襲を受けたとき、殺人、強盗、強かんなどの罪で服役中の凶悪犯ですらも4人一組で腰縄をくくって、裏庭に避難させられた。「絶体絶命の状況でも私を避難させてはくれなかった。『国賊』にはその必要がない、言うて。私のいる部屋が木っ端みじんになっても、あいつらは何の痛みもなかったんやろね。害虫ぐらいに思っていたんやろ」。 徐さんは01年、神戸弁護士会を通じて、日弁連に人権救済の申し立てを行ったが、今年2月、日弁連は人権侵害で日本政府に謝罪と補償を勧告した。 父の友人の遺体に仕打ち(関東大震災虐殺を目撃、文戊仙さん) 6千余人の無実の朝鮮人が1923年9月1日、の関東大震災時の流言蜚語で、自警団などによって虐殺された話はあまりにも有名だ。 慶尚南道鎮海市出身で13歳の時に両親とともに日本に来た文戊仙さんは関東大震災発生当時、東京都品川区大井に住んでいた。震災の翌日には、すでに「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「朝鮮人が放火している」などの流言が飛び交っていたという。文さんの家にも大勢の日本人がやってきたが、大家が守ってくれたという。 しかし、2、3日後に文さんの父を頼ってきた友人は、制止も聞かず抗議に行った。数分後、父の友人の首を竹やりのようなもので突き刺した一団を目撃した。 文さんは1999年12月10日、代理人を通して日弁連に人権救済申し立てを行った。これに基づき日弁連では、03年8月25日付で小泉首相あてに勧告書を提出し、「関東大震災直後の朝鮮人、中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者、遺族、および虚偽事実の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対し、その責任を認めて謝罪すべき」だと指摘した。 同年7月に出された調査報告書では、「父の知人が関東大震災直後に虐殺されたり、虐殺を受けた朝鮮人が遺体に残酷な仕打ちを受けているのをみたりして、深く傷ついた」と文さんのことに触れ、同種の事件再発防止のためにも、政府の責任を明らかにするよう求めている。 同調査報告書は、関東大震災による罹災と戒厳令、虐殺の発生、軍隊による朝鮮、中国人殺害、自警団による虐殺などの項目に分けて、当時の新聞報道などの資料を列挙しながら、虐殺の真相を記している。 [朝鮮新報 2005.8.12] |