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返還待つ「北関大捷碑」、優秀な民族文化遺産

90年当時は鉄柵もなく近くで見るのも可能だった

 「北と南は日本から『北関大捷碑』の返還を受けることとし、そのための実務的措置を取ることにした」

 6月に行われた第15回北南閣僚級会談共同報道文にはこう明記されている。

 現在は「靖国神社」の一角にひっそりと置かれているこの碑は、もともと咸鏡北道吉州郡臨溟にあった。「北関」は咸鏡北道摩天領以北地域を指し、「大捷」は「大勝」を意味する。

 豊臣秀吉による朝鮮侵略の際、義兵を起こして加藤清正軍とたたかい、ついには撃退した鄭文孚を称えたものだ。しかし、露日戦争の時、豆満江にいたロシア軍を攻めるためにこの地に進出した日本軍の第2後備師団の池田正介旅団長が村人を脅して引き抜き、本国に転任する三好成行師団長に託したとされている。

現在の「北関大捷碑」、鉄柵があるために近づけない

 碑は1905年に広島に到着。清日戦争の戦利品記念館である宮城内の「振天府」に陳列され、その後、「靖国神社」に移された。

 当初は「遊就館」のそばに置かれていたが、現在は本殿の近くに、まるで人目を避けるように置かれている。しかも、鉄柵の中にあるので一般人は容易に近づけない。神社発行の案内図にも載っていない。

 そんな状態に置かれている朝鮮民族の遺産。昨年12月には北南の民間団体が会談し、南に引き渡したあと、北に伝達することで合意した。「靖国神社」側は外交経路を通じた返還の意思を3月に示している。

 朝鮮のキム・ウンテク博士は、「優秀な民族文化遺産」である碑の一日も早い返還を求めている。(聖)

[朝鮮新報 2005.8.12]