日本政府の大罪 遺骨は語る〈12〉 愛媛・別子銅山 |
日本の三大銅山の一つである別子銅山は、かつて世界一の産銅量を誇った。四国随一の工業都市、愛媛県新居浜市の発展に貢献するとともに、住友グループの諸事業の礎を成した。 太平洋戦争中には、日本政府の軍需物資増産の方針に従い、各地から鉱夫を集めてきた。 その中には、北海道の住友鴻之舞金鉱で働かされていた朝鮮人244人とその家族数十人も含まれていた。 彼らは、1941年から42年にかけて忠清道から連れてこられた人たちだ。43年に別子行きを命じられた。 「賃金は日本人の半分」
別子銅山があった旧別子山村(2003年4月に新居浜市に編入合併)は、古くは平家の落人が住み着いた土地で、住友鉱山関連事業の労務者が住む村だった。閉山後は「日本一小さな村」と呼ばれたが、1939年から41年の3年間に限っても、700人の朝鮮人がこの地で働いた(中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」)。朝鮮人の賃金は日本人の5割だったという証言もある。 1691年から採掘が始まった別子銅山は、海抜約1200メートルから「深く長く帯状に」掘られ、閉山時(1973年)には海面下約1000メートルにまで達した。地圧と地熱、食糧不足が労働者と家族たちを苦しめた。 91年、朝鮮人強制連行真相調査団はこの地で朝鮮人の「墓」を確認した。地元住民の通報でわかった。だが、その「墓」の「墓石」は高さ20センチにも満たない石だった。 90年代に確認できた「墓」も、今は推測に頼るしかない。折れた大木や土砂崩れによって周りにある日本人の墓石とともに破壊されている。 住民が通報した「墓石」は2つだが、類似した石は5つ以上存在する。近隣の南光院に残されていた過去帳からは、3人の名前が確認された。 記念館、朝鮮人には触れず
別子山のふもとに別子銅山記念館がある。「別子銅山の意義を永く後世に伝えるため」住友グループが75年に建設した。銅山経営の推移や当時の鉱山の模型、資料が誇らしげに展示されている。 しかし、数千人の朝鮮人が連行され、過酷な労働を強いられた事実には一言も触れられていない。 記念館の周囲には1万本以上のサツキが植えられ、観光スポットになっている。開抗の5月にちなんで植えられたというが、サツキの花言葉は「節制」と言われる。 過去帳に記されていた3人のうち2人が5月に亡くなっている。サツキが咲き乱れる5月、観光客でにぎわう記念館を尻目に、同胞と日本人有志らが墓参りを続けてきた。(李泰鎬記者) [朝鮮新報 2005.8.9] |