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日本政府の大罪 遺骨は語る〈11〉 山口・長生炭鉱

 山口県宇部市西岐波の長生炭鉱跡地に2本のピーヤ(排水、通気口)が残っている。強制連行問題が現在に続いている問題であることを象徴している。

 長生炭鉱は1942年2月3日、水没事故に見舞われた。183人が一瞬にして命を落とした。そのうち130数人が強制連行などで日本に渡ってきた朝鮮人だった。

 炭鉱経営者側は事故直後、泣き叫び職員に詰め寄る遺族らを静めるため、急きょ位牌を作成し、葬儀を行った。その時の位牌が西光寺に残っているが、その数は187位、ほとんどが創始改名されたままだ。

格子で囲まれた監視

西光寺に保管されている犠牲者の位牌

 39年以降、長生炭鉱で働かされた朝鮮人のほとんどは、「募集」によって日本に渡ってきた。「役所の指名でしょっぴかれた者もいた」との証言もある。

 下関港に着いた朝鮮人たちは、木格子で囲まれた24時間監視の厳しい寮に入れられた。給料は「戦時国債」や「保険」の名目で引かれ、ほとんど残らなかったという。

 炭鉱経営者側は、生き埋めになった犠牲者たちを引き揚げようともせず、183人が眠る場所で採炭を再開しようとした。

 遺族に対して弔慰金が支給されたが、「親でなければ支給しない」と言われ、あきらめた同胞もいた。

 遺族をはじめ、地元の同胞、日本市民らは再三、真相調査や追悼碑の建立などを訴えてきたが、日本政府は無視し続けている。

 事故から40年、旧飯場に追悼碑が建てられたが、多くの朝鮮人が犠牲になった事実は記されていない。

活動、若い世代に

水没事故が起きる前の長生炭鉱のようす。右下(○部分)にチマ・チョゴリを着た女性の姿が確認できる

 当時を知る金春粉さん(76、福岡県飯塚市在住)は、寮に入れられていた同胞が格子の隙間から手を伸ばして、外にいる人に食料などを求めていた光景を幾度となく目撃した。

 「われわれがいなくなったら事実があいまいになる。若い人たちが後を継いでくれないと、今までの努力が無意味になってしまう」と金さんは訴える。

 「強制連行の玄関」と呼ばれるこの地には、当時の朝鮮人差別と虐待を目の当たりにした者が多かった。山口県朝鮮人強制連行真相調査団には、多くの同胞、日本人が賛同し、調査活動や証言の聞き取りを活発に行ってきた。

 長生炭鉱をはじめ県内各地のダムや軍事施設の建設に関する調査や証言収集を行い、岩国市の龍門寺では9体の遺骨を確認した。

 「これからも日本人と協力して調査活動を活発化させていきたい」と語る山口調査団の許鳳兆・朝鮮人側団長は、「1世たちの苦労を、現場を見て、話を聞いて理解することが大切。若い世代はその理解をもって自分のルーツを知ってほしい」と語る。(李泰鎬記者)

[朝鮮新報 2005.7.26]