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日本政府の大罪 遺骨は語る〈10〉 静岡・清水朝鮮人納骨堂

 静岡市清水区北矢部に清水朝鮮人納骨堂がある。清水地域をはじめ各地に強制連行され、あるいは生きる術を求めて日本に来た朝鮮人の遺骨93体が安置されている。名前がわかっているのはわずか26体、それもほとんどが創氏改名されたままだ。妊婦や乳児のものもある。

総連、民団合同で

清水朝鮮人納骨堂

 解放後、34の寺院に収められていた遺骨は、東海寺に委託安置された。当時の住職は遺骨の将来を案じ、清水市内(当時)の寺院、各界人士らに納骨堂建立を訴え、署名と寄付を募った。1951年に同市に対して納骨堂建立を要請し、市が県に用地提供を求めたが拒否された。

 総連清水支部(当時)は56年、当時の市長に要請し、ようやく小さな納骨堂が建てられた。時の流れとともに損傷が目立った納骨堂は、地域の同胞らが大切に管理していた。

 総連清水支部と民団清水支部は91年、市に建て直しを要請。市は1千数百万円の予算を組み、立派な納骨堂を建立した(93年3月31日)。

 毎年、納骨堂の前で総連、民団合同の追悼会が営まれており、地域の同胞女性らが頻繁に訪れ、花を捧げている。

資料は隠されたまま

骨つぼは白い布に包まれ丁寧に保管されている

 1921年、朝鮮と清水を結ぶ定期航路が開かれ貿易が行われた。42年8月からは日本の国家統制により、「一港一社」の形式になり、鈴与商店(現在は鈴与)が設立した清水港湾運送が回船業務、倉庫管理、燃料販売を統括した。

 中央協和会などの資料によると、鈴与商店は42年6月までに朝鮮人約120人を連行し、鉱山や船内での荷物運びに従事させた。

 清水地域では39年ごろから軍需工場の建設が進められた。日軽金清水工場、東亜燃料、日本鋼管清水造船所などが相次いで建設され、数百人の朝鮮人が労働に従事させられた。だが、全容は解明されないまま、企業側も資料の提出を拒んでいる。

 危険でつらい作業、安い賃金、収容所のような寮、逃亡生活―静岡県朝鮮人歴史研究会などが行った聞き取り調査は、当時の同胞の苦難を今に伝えている。

 筑豊の炭鉱や名古屋の飛行場建設現場などを経て、日立清水製作所の建設現場で働いた金さん(93年当時87歳)は「日本は怨恨の地。(徴用によって)女房、子どもと離ればなれになった」(「朝鮮人強制連行の傷跡・静岡県編」)と語った。

 総連静岡県本部の趙貴連顧問は「遺骨と納骨堂を守ってきた一世の気持ちを受け継ぎ、追悼会を開催している。一日も早く故郷に戻してあげたい」と語る。

 総連、民団側は市に対し、埋火葬許可証から本名や本籍地を調査するなどし、返還に協力するよう訴えている。(李泰鎬記者)

[朝鮮新報 2005.7.19]