日本政府の大罪 遺骨は語る〈8〉 鹿児島・鹿屋市営緑山墓地 |
「他民族を弾圧することはまちがっている」−第2次世界大戦中、日本の侵略戦争と強制連行を批判し拘禁された永野力男さん(2003年に他界)が主張した言葉だ(南日本新聞1984年8月11日付)。 福岡県飯塚市の炭鉱で6年間、両親と共に働いた経験を持つ永野さんは、そこで強制連行されてきた朝鮮人の悲惨な生活を目の当たりにした。危険な坑内での長時間労働、粗末な食事。ボタ山からは「アイゴー、アイゴー」の悲鳴が毎日のように聞こえてきたという。 「同じ人間を差別してはいけない」と両親に教えられた永野さんは、亡くなるまでの数十年間、「外人墓地」を守り、犠牲者を供養してきた。 基地建設に動員
鹿児島県の鹿屋市営緑山墓地には「外国人納骨堂」と刻まれた「外人墓地」がある。1962年に同胞有志らの強い要望で建てられた「外国人納骨堂」には、強制連行などで日本に連れてこられた朝鮮半島出身者の遺骨20柱が安置されている。 彼らは日本軍の航空基地(現在の海上自衛隊鹿屋航空基地)建設などに従事させられ、作業中の事故や空襲などで命を落とした。名前がわかっているのは8柱、ほとんどが創氏改名されたままで本籍地もわからない。 90年代に太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会の代表らがこの地を訪れ、遺骨返還への協力を市に求めたが、「政府からの正式な要望があれば」として、現在まで手付かずのままにされている。毎年、供養を行ってきた市の関係者は、火埋葬許可証など当時の資料はなく、納骨堂建立に関して知る者もいないと述べる。 数十柱は返還
緑山墓地から数キロのところには航空基地資料館と特攻隊員の慰霊塔がある。「捨身」の海軍精神と海軍航空隊の「力」ばかりがクローズアップされ、侵略戦争の責任、そこで犠牲になった朝鮮人のことにはまったく触れられていない。 太平洋戦争末期、鹿児島県には、知覧、鹿屋、国分、万世、出水など約20カ所に航空基地が、そして坊津、桜島、奄美など約20カ所に震洋・回天特攻基地が造られた。 県内に連行された朝鮮人は6000人から1万人と言われる。ほとんどが基地の建設に従事させられ、多くの犠牲者を生んだ。 戦後すぐ、同胞や市民らが発掘作業を行い、数百体の遺体を収容した。納骨堂の建立を市に働きかけ、62年に完成させた。当時、80〜90柱の朝鮮人の遺骨が安置され、後に数十柱が日本人有志らの協力のもと南朝鮮に返還された。 「外国人納骨堂」には今も献花が絶えない。「差別しない人」がいることの証だ。(李泰鎬記者) [朝鮮新報 2005.7.5] |