日本政府の大罪 遺骨は語る〈6〉 兵庫・相生東部墓園 |
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、同胞社会にも甚大な被害と犠牲をもたらし、数百人の同胞の命を奪った。人々が悲しみにくれ、将来に不安を覚えるさなか、「相生平和記念碑」(韓国朝鮮人無縁仏之碑)は建立された。 震災の中、建立望む声
碑の納骨堂には、日本の植民地時代、相生市の播磨造船所(現・石川島播磨重工業相生事業所)に強制連行され、事故などで犠牲となった朝鮮人の遺骨約60柱が安置されている。 遺骨は91年、善光寺(相生市)で見つかった。総連と民団の支部が協力して納骨堂建立を計画。募金を集め、市に協力を依頼した。 そこに震災が発生した。被災者を支援することが最優先では―家族や親せき、友人を失い、住むところにも困っている人たちがいるなか、募金集めの中断も考えられた。 だが、震災で犠牲になった同胞の中には、家族がいない者もいた。支援者の励ましのもと、無縁故者の同胞をしっかり供養しようと募金集めを続け、95年11月、建立にこぎつけた。多くの同胞の支援と市の理解もあり、相生市営の東部墓園に建立された。震災で犠牲となった無縁故同胞3人の遺骨も安置されている。 「相生平和記念碑を守る会」では毎年、この場所で法要を営んでいる。総連、民団の関係者をはじめ、同胞、日本人らが参列。西播朝鮮初中級学校の生徒らは歌やチャンゴ演奏で供養した。 住民との友情も
相生には17年にすでに、朝鮮人の集落が存在していた。以降、播磨造船所工員は急増。労働に従事させられた同胞は2000人近いと見られている。この数字には、朝鮮半島北部から徴用などによって連行された者も含まれている。 44年8月に平安南道から連行された被害者の証言によると、毎日、早朝から夜10時、11時まで働かされ、食事も満足に与えられなかった。船内作業時、クレーンで運んでいた荷物が同胞の1人に当たり船から落ちて息を引き取った。日本人はみな、知らん顔をしていた。 その反面、友情も芽生えた。朝鮮人に対するひどい「いじめ」を目の当たりにした地元の住民らは生活を助けた。逃亡した朝鮮人をかくまった人もいたという。 市内在住の日本人男性(71)は「朝鮮人は満足に食べられず苦労していた。両親が食料を分けてあげていたことをうっすら覚えている」と語る。 市内の中心部にはプラタナスの並木道がある。59年に集団帰国した同胞たちが、この地で「お世話になった日本人に感謝を込めて」植えていったものだ。友情の証は今ではすっかり大きくなった。(李泰鎬記者) [朝鮮新報 2005.6.14] |