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〈日本の過去を告発する〉 仁川で強制労働をした安成得さん(75)

「忘れられない少年の死」

[略歴]:1929年7月28日、江原道鉄原郡トンソン面で生まれる。両親、3人の弟と暮らしていた際、父が警察に捕まり拷問により他界。44年4月に小学校を卒業後、仁川の芝浦通信機械組立工場で強制労働。45年6月頃、「不治の肺病」との診断を受けて工場から追い出され、故郷で解放を迎える。


 鉄原洋酒工場で酒樽配達員として働いていた父は、1941年9月のある日、悪質な日本人監督と争ったことが「罪」となり、郡警察署に連行されて拷問を受け、釈放から2日目に亡くなった。母は私を含む4人の息子たちを思って死ぬに死にきれず、女手一つでやっと生計を立てていた。母は、そんな中でも金を少しずつ貯めて私を小学校に送り44年4月に卒業を迎えた。

 その年の8月、私は郡警察から翌朝9時までに警察署に出頭しろとの「呼出令」を受けた。訳のわからないまま朝飯も食べず警察署に行くと、同年代の少年が10人ほど集まっていた。署長は私たちを集め、「お前たちは、天皇陛下のために技術も学び金も稼げる場所に行く。これからはこの警官の言うとおりにしろ」と言った。

 私たちが行きたくないと泣き叫ぶと、警官が「行けば飯もたくさん食えるし、いい服も着ることができる」となだめる一方、「これから言うことを聞かない奴は留置場にぶち込む」と脅した。そして、泣きやまない少年の尻を軍刀の柄で容赦なく殴りつけた。

 私たちはその日のうちに鉄原駅から貨車に乗せられ、仁川の芝浦通信機械組立工場に連れて行かれた。鉄条網で囲まれた工場の要所には、軍人と軍犬が配置されていた。

 そこに連行される前、日本人の言っていたのとは違い、私たちは防空壕掘りや建物の基礎掘りなどの掘削作業と軍事訓練をやらされた。

 一日平均12〜15時間ずつ仕事をしなければならなかったが、午前のノルマをすべてこなさなければ給食券はもらえず、それは晩飯も同様だった。きつい仕事をこなしてようやくご飯を食べられると思っても、出てくるのはわずかな大豆と麦の混じったご飯、たくあん、塩汁だけだった。あまりの空腹に耐えられず、軍犬の餌を盗んだことも一度や二度ではない。

 当時のことで今でも忘れられないのは、私の横で休みながら一緒に働いていたファン・ギチョルという14歳の少年のことだ。ご飯もほとんど食べられず重労働をさせられたため、ほとんどが栄養失調になったが、彼は45年3月初旬から高熱にうなされ、床を上げることができなかった。ある日、朝の点呼に出られなかった彼に、複数の日本人が暴行を加えた。私が行ってみると、彼は力なく両腕を振り上げて「お母さん、お母さん」と何度かつぶやいたかと思うと、目も閉じずに死んでまった。

 日本人は彼の寝ていた筵で死体を包みどこかに持っていったが、その後どうなったかわからない。私は45年6月、「肺病」の診断を受けて工場から追い出された。やっとの思いで故郷に戻り解放を迎えたが、あの時の悔しさを思うと怒りの涙がこみ上げてくる。(整理、李松鶴記者、おわり)
      

[朝鮮新報 2005.6.10]