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〈日本の過去を告発する〉 富山県に強制連行された金龍福さん(77)

「生き残ったのは41人だけ」

[略歴]:1928年6月6日、平安南道价川郡ポンドン面で生まれる。七兄妹の3番目として育ち、43年10月、15歳の時に「広告」に騙され日本に渡る。富山県にある軍需工場・昭和電工株式会社で、アルミニウム溶解作業を強いられているうち、解放を迎え故郷に戻る。

 1943年10月、小学校を卒業した私は、日本人が15〜18歳までの青少年労働者を募集する「広告」を平壌で見かけた。そこには、「待遇もよくさまざまな面で優待される。専門技術を身につけ、1年後には朝鮮に帰ってこられる」と書かれていて、私を含む62人の少年たちが富山県に渡った。

 私たちは、アルミニウム精錬工場(軍需工場)である昭和電工株式会社に連れて行かれ、翌日には「入所式」が開かれた。私たちの前には、警察官や憲兵、工場の幹部らしき日本人が並んで座っていた。そのうちの工場の幹部らしき日本人が、「お前たちは今日から県人徴用令によってここで働かなければならず、逃亡を企てた場合は軍法にしたがって厳罰に処す」と言った。その時になって私たちは騙されたことに気づいた。

 62人の少年たちは2つの小隊にわけられ、日本軍中尉と伍長、監督、小隊責任者らの監視のもとで暮らすことになった。私たちは「宿」に連れて行かれたが、名ばかりの宿で2〜3人がやっと休める狭い部屋に11人ずつ詰め込み、囚人服のような徴用マークの付いた半そで、半ズボンの「作業服」を私たちに手渡した。

 その後の2、3日間は、「訓練」という口実で日本軍隊式の訓練をやらされた。日本人は少しでも動作が遅かったりすると、軍刀で頭や腰を容赦なく殴った。「訓練」を終えて現場で働くようになったが、私たちは日本が東南アジア諸国や朝鮮から奪ってきたアルミニウム鉱石を炉で電気溶解する作業をやらされた。1000℃を超える炉の前で作業をするので、眉毛と髪の毛はすべて焼けてしまうほどの熱さだった。半そで、半ズボンだった私たちは、鉱石を入れる袋を破って体に巻きつけて作業した。

 労働時間は一日に14〜18時間、食事は大豆のクズにタクアン2、3きれしか与えられなかった。私たちを連れて行くとき、日本人は一日に70銭の給料を払うと言っていたが、一度ももらったことはない。こんな悪条件で働かされたため、私たちは作業中に一人、二人と倒れた。すると監督が、仕事を怠けていると言っては殴る蹴るの暴行を加えた。

 日本人は私たちを呼ぶ時、一度も名前で呼んだことはなかった。「この野郎!」「鮮人」「半島人」など、民族的に差別、蔑視した。

 私たちはここで働いている時に解放を迎えたが、62人のうち41人しかいなかった。

 今でも当時のことを思うと怒りがこみ上げてくるし、どうやれば日本に復讐できるのかという一念で生きている。(整理、李松鶴記者)

[朝鮮新報 2005.6.10]