「竹島(独島)問題」 鬱陵島とともに「因幡伯耆に附属せず」 徳川幕府、17世紀に渡海禁止令 |
崩れる日本の「17世紀半ば実効支配」主張 「竹島(独島)問題」について、日本政府外務省は、相変わらず固有領土論を振りかざし、1905(明治38)年の領土編入は、「日本政府が近代国家として竹島を領有する意志を再確認したものである」と言っている。しかし、竹島(独島)が歴史的にも国際法から見ても、日本の固有領土と言えるかどうかは疑問である。 土地は分与せず
まず歴史の事実について見る。外務省は「遅くとも17世紀半ばには、実効的支配に基づき、竹島の領有権を確立していた」とする。それは、1618(元和4)年に、伯耆国米子の町人、大谷・村川の両人が、幕府から鬱陵島への渡海免許を受けて、漁を行うようになり、その途中にある竹島(独島)にも寄港、1661(寛文元)年には、両人が竹島(独島)も拝領したということに基づくが、はたしてそうであるかどうか。 幕府から米子町人が、鬱陵島と竹島(独島)を拝領したというのは、明らかに誤っている。封建社会では、すべての土地は領主のものであり、町人に分与するなどはありえないのである。しかも拝領したうえで渡海免許を受けたというが、大谷家の渡海免許状の写しには、拝領のことは記されていない。 また、免許状には交付の月日だけが記されており、それを1618年のものというのは、大谷家の「竹島渡海由来記抜書控」で、元和4年と記してあることによる。しかし、免許状に署名している4名が、老中になるのは元和6年からで、4年には2名の者が老中ではない。当然に、1618年から竹島(独島)渡海が始まったとする説は否定されることになる。 また、1661年に竹島(独島)を拝領したというのも「抜書控」から外務省にいた川上健三が推定したもので、川上も言っているように「幕府の内意を得て」竹島(独島)に行くようになったというものでしかない。 李朝の空島政策 15世紀以来、朝鮮王朝は、鬱陵島に対して、空島政策をとっていたから島は無人であった。そのため米子町人は、70年にわたる渡海をつづけることができたわけだが、それを実効支配の例証とするには問題がある。幕府は、1696(元禄9)年に、鬱陵島が朝鮮領だと認めて、日本人の渡海を禁止するのである。しかもその時鳥取藩は、幕府に対して、鬱陵島とともに竹島(独島)も因幡伯耆の附属ではないと回答し、幕府の禁止令施行に決定的役割を果たした。 現竹島(独島)の松島が日本領ではないという見解は、1876(明治10)年の太政官による「竹島(鬱陵島)外一島本邦関係無之」の決定で再確認されている。そうである以上、1905(明治38)年の日本領土編入を外務省のように「領有意志の再確認」などとは言えないはずである。 明治10年以後では竹島(独島)のことは忘れられており、フランスの捕鯨船の命名によるリアンクール岩が公称となる。隠岐の人たちは、略してリアンコ島と呼び、中井養三郎の領土編入申請書でもリアンコ島である。 植民地化の第1歩
これに対して韓国では、独島と言っていた。1904(明治37)年の軍艦「新高」の航海日誌には、リアンコ島実見者から聴取した話として、「韓人は独島と書き、日本漁民はリアンコ島と呼んでいる」と記す。それより前の1900(明治33)年には、大韓帝国勅令第41号が公布され、リアンコ島に石島の名が与えられている。石島が独島であることは、1906(明治39)年に、島根県官員一行が鬱陵島に立ち寄って、リアンコ島の日本領土編入を告げた時、郡守は、本郡所属の独島が日本領にされたと驚いたことでも明らかである。 したがって、リアンコ島の日本領土編入に際して適用された「無主地先占」の理論は成立しなくなる。無主地では、日本固有領土論とも矛盾する。当時政府関係者は、韓国領ではないかとの疑念をもちながらも、敢えて所属不明の無主地にしたのである。とりわけて外務省と海軍省が、日本領土編入の積極論を述べて推進したことは、事態の本質を示しているといってよい。 日露戦争のさなか、リアンコ島がもつ戦略的位置が重視されたのである。ロシアのウラジオストック艦隊の動向を見張るため、さらにはバルチック艦隊に備えるためにも、同島に監視哨を設ける必要に迫られていた。すでに、陸軍は韓国内で軍が必要とする地を、臨時収容する権利を得ていた。3月の奉天会戦を控えてソウルの治安警察権も日本軍が掌握する中で、1月28日にリアンコ島の領土編入を閣議で決定したのである。韓国政府は、異議申し立てができるような立場にはなかったのであるから、日本領土編入のことを通告もしなかったのではなかろうか。外務省は、外国政府に通告することは国際法上の義務ではないと強弁しているが、いかなるものであろうか。 その年11月には、乙巳五条約である。日帝による朝鮮植民地化の第一歩が、リアンコ島の日本領土編入であった。(内藤正中、島根大学名誉教授) [朝鮮新報 2005.6.7] |