〈日本の過去を告発する〉 神戸製鋼所に連行された洪燦正さん(79) |
「甘言を弄して騙した」
[略歴]:1926年4月20日、慈江道時中郡で生まれる。貧農の家庭で8人兄妹の3番目として育ち、普通学校卒業後は両親とともに農作業に従事する。1943年3月、日本人の甘言に騙され神戸製鋼所に連行され強制労働を強いられているうち、朝鮮人労働者を搾取する日本人伍長を懲らしめた罪で神戸警察署に監禁。警察署が空襲を受けたことにより釈放され、故郷に戻る。 私が8歳の時、祖母と両親、8人の兄妹は口に糊することすら難しかったため、故郷を離れ慈江道慈城郡に移り住んだ。しかし、ここでも両親は貧農として働くのが精一杯で生活は相変わらず苦しかった。私も普通学校を卒業すると同時に両親の農作業を手伝った。 1943年3月のある日、軍需工場で働く前田という日本人が「日本に行けば勉強もできるし、技術も習うことができる」と、一緒に日本に行こうと言うのだった。私は家が心配なので行けないと言ったが、日本人たちは前もって面所在地で戸籍を調べ、日本に連行する対象者のリストを作成していたので、逃れようがなかった。 その日本人に邑に連れて行かれると、私の同年代の朝鮮青年が私を含め40人いた。私たちは汽車に乗せられ、現在の黄海製鉄所に連行された。製鉄所では厳重な警備を敷いて、私たちが逃げられないようにした後、工場の工程を1週間かけて見学させた。その時になって、「騙された」と思い、夜陰に乗じて逃げようと思ったが、警備が厳重でとても逃げられる状況ではなかった。 見学を終えた私たちは翌日、汽車で釜山へ、釜山からは連絡船で神戸に連れて行かれ、20人は神戸精錬所へ、私を含む残りの20人は神戸製鋼所へ連行された。製鋼所に着くや否や、日本人は私たちに作業服を渡し翌日から仕事をさせた。 労働時間は一日14時間、食事は麦と大豆の混ざったわずかな飯とタクアンだけだった。 私はここで、溶解工として働かされた。幼いうえに経験がないことから、作業をうまくできなかった。そのたびに、日本人監督は私を殴りつけた。重労働をしながらも、食べるものは少ないので、3カ月後には栄養失調になり働けなくなった。しかし、製鋼所では薬一つくれなかった。私がこんな状態では溶解工はできないと言うと、日本人はクレーン運転工として働かせた。 製鋼所で働いている時、私たちに毎朝、神棚に向かって正座させ「天皇陛下に感謝しろ」と強要するなど、ありとあらゆる屈辱と虐待を加える伍長が一人いた。あまりにもひどかったので私たちはある日、伍長を捕まえて病院送りにしたが、すぐ後に2人の憲兵が駆けつけて私たちを神戸刑務所の地下室に連行していった。私たちは5人ずつ独房に詰め込まれたが、横になるのはおろか足を伸ばすこともできなかった。私たちはここで数日間暴行を受けたが、刑務所が空襲を受けたことで釈放され、やっとの思いで故郷に帰ってきた。 日本で受けた暴行により、左耳は今でもよく聞こえないし、腰にも後遺症が残っている。当時のことを思い出すと、今でも怒りがこみ上げてくる。(整理、李松鶴記者) [朝鮮新報 2005.6.4] |