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〈日本の過去を告発する〉 羅南19師団に「徴兵」された趙寅化さん(80)

「戦争で廃人になった」

[略歴]:1925年5月25日、咸鏡南道北青郡で4人兄妹の3番目として生まれる。親せきが3.1運動にかかわったという理由で財産を差し押さえられ、家族のもとを離れ清津製鉄所で少年の頃から労働を強いられる。45年4月、「徴兵」により中国東北地方でソ連軍との戦闘に動員され、解放当日まで戦わされる。九死に一生を得て故郷に戻るも、凄惨な戦闘が原因で、現在も精神的に不安定な状態が続いている。

 私の一家は、代々咸鏡南道北青郡リャンガリで暮らしてきた。6歳の年、叔父が3.1運動に参加したという理由で一家の全財産が差し押さえられた。このため私の家族は食べられなくなり、離れ離れになってしまった。しかし、翌年故郷で河川工事が行われたのを機に家族が集まり、工事の仕事をしながら細々と暮らしていた。工事が終わった後、両親は小作農として働き、私は牛追いをしながら稼いだ金で小学校に通い卒業した。

 卒業後は清津製鉄所の溶鉱炉建設に強制動員された。工事現場では毎日2〜3人の朝鮮青年たちが命を落とした。当時、日本人は少年たちを「徴用」で連行し、一定の歳になると「徴兵」していった。

 私も45年4月1日から日本軍羅南19師団で軍事訓練を受け、6月には同じ年頃の青年たちとともに貨車に乗せられ、中国東北地方に連れて行かれた。

 ここで私たちは8351工兵部隊に所属し、ソ連との国境から40キロほど離れた場所で対戦車壕や防空壕などを掘る作業をやらされた。また、木材で偽の大砲を作る仕事もやらされた。中国に行く時、日本人は「いい暮らしが保障される」と言っていたが、私たちに与えられたものは少しの麦飯だけだった。

 8月9日午前1時、ついにソ連軍が進撃を開始した。私は「もう死ぬ」と思った。退却している最中、ある朝鮮の青年が「日本の上等兵を殺し赤の軍隊へ行こう」と言ったが、計画が事前にばれどうすることもできなかった。

 ソ連軍の爆撃は日に日に激しくなるが、後ろでは日本人が「天皇陛下のために戦い自爆しろ!」と追い立てた。私たちはどうせ死ぬのなら逃げようと決心し、行動に移した。すると日本人たちは逃げる私たちを銃や刀で殺し始めた。

 何とか生き延びた私は後方に行ったが、そこにいた将校は「なぜお前だけのこのこ帰ってきた! 前線に戻れ!」と怒鳴るのだった。結局私は、解放を迎えた8月15日まで死と隣り合わせの戦場で生き地獄を味わった。

 故郷に戻ってからも、夜中に飛び起きたりうわごとを発するなど、深刻な後遺症に悩まされた。そのため家では「戦争廃人」になったと私の「祭祀」まで行ったほどだ。

 私は今でも日本人に刀で切られたことにより、右脚が不自由で杖なしでは歩くこともできない。日本は、植民地支配時代にわが民族に対して犯した罪に鑑みても、中国東北地方で虐殺した朝鮮青年たちの遺骨だけでも最低限探し出さなければならない。(整理、李松鶴記者)

[朝鮮新報 2005.6.4]