〈朝鮮近代史点描-16-〉 抗日武装闘争・普天堡の銃声 |
Q 全民族的な闘いであった3.1独立運動は、日帝に甚大な打撃を与えたものの、朝鮮の独立は実現されず、日帝の植民地統治はいっそう陰険、苛酷なものになりました。朝鮮人民はどこに希望をたくしたのでしょうか。 A 3.1独立運動は、民族解放運動史における分水嶺といわれています。この運動によって、民族主義者の指導のもとでは社会的解放も民族の独立も不可能であること、運動の主体は、労働者、農民、商工業者が一体となって推進されねばならず、先進的な階級の党の指導が必要であり、かつ武装闘争の必要が痛感されたのです。なお、この運動は中国、インド、ベトナムなど、広くアジアの諸民族に大きな影響を与えたのでした。 この運動の後、マルクス主義が急速に普及しはじめ、人々の民族意識と階級意識が成長し、青年学生、労働者、農民、女性など、各種の社会運動が活発になります。そして、ついに1925年4月、ソウルで朝鮮共産党が創建され、1926年4月の純宗の葬儀を契機に、反日6.10万歳闘争が組織されて、一定の成果を収めました。1925年8月にはカップ(朝鮮プロレタリア芸術同盟)が組織されるし、1927年1月には労働者、農民をはじめ、各界各層の愛国勢力を網羅した新幹会が創立されます。まことに朝鮮の近現代史の画期的な事件がつづく訳ですが、これらは日帝の言葉そのままの野獣的な弾圧により、次々と解散を余儀なくされてしまいます。 しかし逮捕投獄、虐殺を免れた愛国闘士たちは、困難な条件のもとでも労働運動、農民運動、文化運動の高揚のため闘いをつづけて行くのです。 そして、1920年代末から1930年代の初期にかけての労働者、農民の闘争を背景として、朝鮮民族解放闘争の推進のために武装した帝国主義に対する「武装した愛国勢力の組織的闘争」が切実な問題として提起されたのでした。 武装闘争を組織するためには、有利な条件をもつ旧満州に根拠地を設け、さらに朝・中両国人民の共同闘争を展開して、国際的な連帯をはかることが必要とされたのです。 金日成将軍を先頭とするマルクス主義の先進理論を指針とする精鋭闘士たちは、これまでの武装闘争の成果を総括し、新しい時代の要請に合わせて1932年、抗日遊撃隊(のちに朝鮮人民革命軍)を結成して東満各県を中心に急速にその勢力を拡大して行きました。遊撃根拠地も拡大されて行きます。ついで反日民族統一戦線体として祖国光復会も結成されます(1936年5月)。日帝の執拗な攻撃と破壊工作の中、次に要求されたのは、朝鮮国内の日本警備隊への侵攻作戦でした。もしこれが成功すれば、全民族に及ぼすその政治的効果は甚大です。 慎重に選ばれたのは鴨緑江上流の町、普天堡。1937年6月4日午前0時、金日成将軍を指揮官とする人民革命軍は、いかだで江を渡り、10時攻撃開始。たちまち駐在所、面事務所などから火が上がります。遊撃隊は歓呼にわく人民に「祖国光復会綱領」「朝鮮人民に檄す」などのビラを撒き、「共に日帝と闘おう!」と演説し、江を越え帰っていったのです。このニュースはすぐ全国に知れ渡り、全人民に大きな勇気を与えました。「朝鮮人民は生きており、日帝と闘えば勝つことができるのだ!」と。(金哲央、朝鮮大学校元教授)=おわり [朝鮮新報 2005.5.26] |