top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮近代史点描-15-〉 3.1運動と女性の闘い

 Q 3.1独立運動での女性の役割について話してください。

 A 写真を見てください。これはまことに歴史的な写真で、当時まだ少数だった女子学生たちが「独立萬才」を叫びながらソウルの街をデモしています。全国から集まった先駆的な女性たちが社会的な要求を掲げてデモをするのは、朝鮮の歴史上初めてのことだったと思われます。

 新時代の到来を実感させる写真ですが、ここで運動の経過を見ておかねばなりません。

 1919年1月、日本の不当を唱えていた高宗が突然死去します。日本人による毒殺説が広がりますが、葬儀が行われ、多数の人が集まる機会をとらえて日本の虐政に反対し、朝鮮の独立を内外に宣言しようという計画が独立運動家を中心に進められます。

 この運動の背景には、第1次世界大戦中の1917年、ロシアで起こった世界最初の社会主義革命によって成立した「労働者と農民の国」の存在がありました。

 指導者レーニンは、ロシア国内の100あまりの少数民族の民族自決を宣言し、かつ世界の弱小民族の解放運動を支援すると約束します。

 これにあわてた米大統領ウィルソンは、1919年、戦勝国の講和会議で(敗戦国内の)弱小民族に対する「民族自決」を認める決議をしたのです。これが教会を通じて人々に伝えられ、大きな幻想を与えたのです。

 民族代表33人の中にも「正義と人道」のため「外交と請願によって独立を」と希望をもつ人がいましたが、結果はご存知の通りです。

 3.1独立運動は、妥協的な「民族代表」の意図を越え、またたく間に全国に広がっていきます。初めは男女学生と知識人が先頭に立ちますが、しだいに運動は農民、労働者、商工人が中心となり、日帝の残虐な弾圧に対処して、農具や棍棒などで武装するようになっていきます。

 3月から5月まで集会は1500回、参加者200万に達しました。日帝の発表による2カ月間の死者は7500名、負傷者1万6000名、逮捕者は4万7000名に達しました。平和な請願デモに対し、いかに凄惨な弾圧を加えたかよくわかります。

 朝鮮のジャンヌ・ダルクといわれる柳寛順(1904〜20)は、地方教会の推薦で、ソウルの梨花学堂(現在の梨花女子大)で学んでいました。この日、学生たちはパゴダ公園の集会に参加しようとしましたが学校は許さず、すぐに学校は強制休校となります。柳寛順は、ソウル市民の闘争を受け継ごうと3月13日、故郷の忠清南道天安郡に帰って激しく働き出します。そして、町に市場が開かれる4月1日を期して、独立宣言集会を開くのです。デモの先頭に立つ父母は殺され、彼女は逮捕されますが、獄中で連日の暴力に屈せず、独立万才を叫びました。翌20年9月28日、ソウルの西大門刑務所で力尽きて獄中死。しかしその鮮烈な魂は、今も人々に大きな勇気を与え、女性の社会進出を励ましています。(金哲央、朝鮮大学校元教授)

[朝鮮新報 2005.5.21]