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〈日本の過去を告発する〉 鹿児島県出水に連行された金用傑さん(79)

「我慢越えた虐待と蔑視」 

[略歴]:1925年10月27日、平安南道江西郡江西面で生まれる。普通学校卒業後、8人の家族を養うため、父とともに少年労働者として16歳から炭鉱での労働を強いられる。45年初夏、「徴兵」により慶尚南道鎮海の「新兵訓練所」で訓練を受けた後、鹿児島県出水の軍用飛行場に連行され飛行機退避壕や防空壕、兵営建設などの重労働に従事させられている時に解放を迎える。

 私は8人家族で、父と私が鉱山で働いた金で糊口をしのいでいた。44年初夏のある日、鉱山駐在所の巡査から翌朝までに面駐在所に行けという通知をもらった。翌日、駐在所に行くと署長が「徴兵令状」を見せながら、軍隊に行けと言った。

 私は家の事情について話しながら、徴兵の免除を頼んだが、署長は「応じなければ監獄で苦労するばかりでなく、家族も無事でいられると思うな」と脅迫した。私は同郷の5人とともに汽車に乗せられ、慶尚南道鎮海に連行された。

 私たちはそこにある「新兵訓練所」で3カ月間、訓練を受けた。しかし、訓練とは名ばかりで、初歩的な制式訓練以外は朝鮮人を「皇国臣民化」するための「精神教育」がほとんどだった。

 訓練中、日本人は口実をつけては私たちに「気合」を入れた。訓練期間中、私たちは旅館で寝泊りしていた。ある日、あまりの空腹に、ある青年が外出許可をくれるよう頼んだのだが、日本人は彼に殴る蹴るの暴行を加えて足を使い物にならなくし、治療も施さず旅館から追い出した。この他にも、訓練動作が遅いといって棍棒「気合」を入れられ腰が使えなくなった者、起床訓練ができないといって殴られ鼓膜が破れた者もいた。

 訓練を終えた私たちを、日本人は鹿児島県出水にある軍用飛行場に連行し、飛行機退避壕や防空壕、兵営建設などつらい仕事をやらせた。そこの区分隊には朝鮮人が私一人しかおらず、洗濯や汚物処理などすべての仕事をやらされた。ある時は、伍長が洗濯をきちんとやっていないことを口実に、「鮮人、この野郎!」と罵りながら、私に暴行を加えた。あそこでは虐待され、蔑視されることが日常茶飯事だった。

 仕事もつらく食べ物もなくて常に空腹に苦しんだが、人間としてあらゆる虐待と蔑視を受けることだけは我慢できなかった。あまりにも悔しくて、夜中に一人起きては人知れず涙を流したことも1、2回ではなかった。

 こうして過ごすうちに解放を迎えたが、日本人は「終戦になったから、鮮人は行きたいところに行け」と旅費もくれずに私たちを追い出した。私は飛行場に連れてこられた9人の朝鮮青年と共に、一銭もない体で下関まで行き、密航船でようやく故郷にたどり着いた。

 過去、日本人にあらゆる虐待と蔑視を受けてきた私としては、みずからの罪を省みるどころか逆に高慢な態度をとる日本を見ていると、怒りがこみ上げてくる。(整理、李松鶴記者)

[朝鮮新報 2005.5.21]