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〈日本の過去を告発する〉 和歌山県有田郡に連行された金世国さん(77)

「葬式は自分たちでやれ」

[略歴]:1928年5月10日、平安北道義州郡で生まれる。祖父母と3人の叔父とその妻、叔母、姉、4人の従兄弟とともに小作農として働く。1940年4月、日本に連行され和歌山県の紡績工場で労働を強いられた後、新義州の繊維工場で義務労働を強いられている時に抜け出し、姉の夫のもとに身を寄せる。45年春、中国・瀋陽の関東軍第377222部隊に徴集、解放を迎える。

 小学校の卒業を控えた3月のある日、日本人将校に呼ばれ同級生1人とともに教員室に行った。教室には校長がいて、「お前たちは光栄にも日本で勉強することになった。日本で勉強すれば技術者になって帰ってこられる」と言葉巧みに言うのだった。

 家に帰ってこのことを話すと、両親は小学校を卒業したばかりの子どもが、どうやって異国の地で暮らしていけるのかと猛反対した。両親の反対もあり、日本に行くまいと決心して翌日学校に行ってみると、校長がすでにトラックを待機させていた。私たちは無理やりトラックに詰め込まれ新義州に連れて行かれた。新義州には同年代の朝鮮女性80人と青年20人がいた。

 私たちを集めた後、道警察警務主任が、「お前たちは総督府の命令により、日本に行くことになった。道中、逃亡を企てたりした者については、本人はもちろんその両親も厳罰に処す」と脅した。私たちは囚人服を思わせる「団体服」に着替えさせられ、汽車で釜山へ、釜山からは連絡船で下関に連行された。下関からまた汽車に乗せられ、着いたのは和歌山県有田郡の内海紡績株式会社だった。

 朝8時から晩の11時までの強制労働、大豆ととうもろこしが混ざった粗末な食事など、私たちが人間扱いされたことなど一度もなかった。

 ある日、李信子という女性が作業中に監督の鞭を避けようとして誤って苛性ソーダの入った釜の中に落ちてしまった。釜の温度は1000℃を超えるため、彼女は亡くなった。死体を取り出すと、肉が溶けて骨だけが残っており言葉では表現できない状態だった。しかし監督は、「朝鮮の女が死のうが俺には関係ない。葬式をやるんなら、自分たちでやれ」と、虫けらが死んだかのような対応だった。私たちは給料ももらえなかったが、みんなで協力して少しずつ金を集め、彼女の葬式を行った。

 仕事を怠慢していると、監督が私をスパナで殴りつけようとした際、左腕でそれを防いで強打され、今でも左腕は自由に使えない。

 1年が過ぎると、日本人は私たちを新義州繊維工業株式会社に移し、5年間の義務労働を課した。このままでは殺されると思った私は43年春、工場を抜け出し中国・瀋陽にいる姉の夫のもとに身を寄せ、彼と一緒に工場で働いた。しかし45年春、「徴集令状」により関東軍第377222部隊に連行された。

 ここでは、戦車の進撃を防ぐための対戦車壕を掘る作業をやらされたが、作業中に土砂が崩れ一緒に働いていた4人の朝鮮青年が生き埋めとなった。私もその時に打撲傷を負った。この部隊にいる時に解放を迎えた私は、ようやく故郷に戻ることができたが、今でも日本人が朝鮮人を蔑視し虐待したことを思うと、死ぬに死ねない。(整理、李松鶴記者)

[朝鮮新報 2005.5.21]