〈朝鮮近代史点描-14-〉 安重根義士、伊藤を撃つ |
Q 安重根は、どのような根拠をもって伊藤博文を撃ったのでしょうか。 A 安重根(1879〜1910)の家は黄海道海州でも有名な高麗時代から続く名家で、かつ大地主の長男として生まれました。代々学問を尊重し、商業も営む進取的な家でしたので、開化派の発行する新聞を早くから購読し、世の中の動きにも敏感でした。 安重根は幼い時に伝統的な儒学の勉強をしましたが、青年になるにしたがって乗馬と射撃を好み、父にねだって買ってもらったライフル銃をもって山野を駆けめぐり狩猟を楽しんだり、志を持つ青年と出会って酒を酌み交わすことを喜びとしました。 その時に必ず議論の中心となったのは、自主的な独立国家の建設とそれを危うくする日本の侵略行為でした。多感な青年時代を通じて朝鮮を舞台とした清日・露日の戦争や、閔妃虐殺事件などにおける日本の蛮行、それに抵抗する義兵闘争などを、熱い心情をもって見つめていたのです。 その間、金亜麗と結婚。2男1女をもうけ、キリスト教の洗礼を受け、平壌に出て商業に従事しますが、1905年「乙巳保護条約」の発表に衝撃を受けます。外交権を奪われソウルに総督府が置かれ、初代韓国統監として伊藤博文が乗り込んでくるのです。植民地化への大きな第一歩です。 彼は商社を清算し、自立と独立精神による救国の人材養成のため、南浦に敦義学校を建設します。 しかし事態はさらに切迫していき、高宗は廃位に追い込まれ、朝鮮軍は解散させられます。 今や教育による人材養成の段階ではなく、自らが直接立ち上がって日帝に抵抗し、国権を守らねばならないと決意するのです。 「民族の独立と自由は、神から与えられた天賦の権利であり、それを守るため立ち上がることは神の意志に沿うことである」と考えたのです。 彼は後事を二人の弟に託し、同胞が多く住み、義兵闘争の根拠地となっているシベリア・沿海州に向かいます。そして沿海州における激しい活動により、次第に義兵闘争の有力な一人となっていきます。 1908年、彼は数十名の部隊を率いて豆満江を渡り、会寧郡の日本守備隊を襲撃する作戦を行いますが、失敗。やっと沿海州に帰り着くことができました。以後、2〜3名単位のゲリラ戦に転換するのです。 1909年10月22日、新聞を見る彼の眼は、朝鮮侵略の元凶伊藤博文がロシアの財務大臣ココチェプと会談するため、ハルピンに来るという記事に釘付けになります。 彼は、義兵部隊の幹部としてこの好機をとらえ、母国侵略の元凶の狙撃を実行したのです。1909年10月26日のことです。彼は伊藤の罪悪15条を挙げますが無視され、翌年3月に死刑執行。「朝鮮合併」はその半年後のことです。(金哲央、朝鮮大学校元教授) [朝鮮新報 2005.5.19] |