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〈日本の過去を告発する〉 「徴兵で」愛知県に連行された金致★さん(81)

「早朝から作業、水もくれず」

[略歴]:1924年3月11日、平安南道順川郡で生まれる。1945年1月初旬、「徴兵」で現在の愛知県渥美郡田原町に連行され、「第4農耕勤務隊」で強制労働を強いられる。厳しい監視、差別と虐待の中、同地区農家の重労働を一日中強要される。解放後、「朝鮮人は皆殺しにされる」という噂を聞き、ともに連行されてきた同胞青年とともに抜け出し、九死に一生の思いをして故郷に戻る。

 20歳の時、「赤紙」を持った憲兵隊と警察官が家に来て、私を強引に郡所在地に連れて行った。そこにはすでに300人の青年たちがいて、汽車で平壌の44連隊に連行され2カ月間予備訓練を受けた。

 予備訓練が終わると、そのうちの200人が汽車に乗せられ、1週間かけて釜山に行った。貨車1台に200人が詰め込まれたため、横になるのはもちろん座ることもできなかった。動くこともできないので、用を足すときは空き缶を手渡ししながら済ませた。その間の食事は、一日に一握りの麦飯だけだった。

 釜山から連絡船に乗せられ下関に着いた私たちは、汽車に乗せられ、駅に着くたびに30〜50人ずつ降ろされた。私は30人の青年たちと一緒に現在の愛知県渥美郡田原町へと連れて行かれた。日本人は私たちを学校内の一教室に押し込め、見張りをつけて逃げられないようにした。

 翌日から私たちは、「第4農耕勤務隊」に配属され農作業をやらされた。私たちには2人の上等兵が監視としてついていたが、30人が周辺農家に散らばって作業をするため、すべてを監視することができなかった。そのため、各農家の主に監視させた。当時、男はみんな戦争に行って家に残っていたのは老人と女だけだったが、彼らの扱いはひどかった。

 麦の収穫に続き、私たちは田植えをさせられた。また、鍬で竹林を開墾する作業もやらされた。

 こうしたつらい作業を朝早くから日が暮れるまでさせておきながら、彼らは一口の水もくれなかった。自分の家の仕事を手伝っているのに、感謝の気持ちで一口の水もくれないのか。ましてやあまりにも疲れて一息入れると、女たちまでが来て足蹴にしたり上等兵に報告したりした。報告を受けた上等兵は、その日の晩に学校で「気合」を入れると言いながら、棍棒で殴ったり軍靴で蹴ったりした。上等兵は、自分たちが殴り疲れると同胞同士で殴り合わせた。

 私はこの時の後遺症で、今でも腰と右腕を自由に使うことができない。

 日本が負けたという知らせを聞いた後、日本人が朝鮮人を皆殺しにするという噂が流れた。そのため私は友人らとともに夜陰にまぎれて抜け出し、貨車に積まれた石炭の中に身を隠し、九死に一生の思いをして釜山にたどり着いた。

 当時、私はまだ若かったから生き残ったものの、歳をとった人たちはほとんどが犠牲となった。

 日本は、過去に朝鮮人を虐待し蔑視したことに対し当然のことながらひざまずいて謝罪しなければならない。(整理=李松鶴記者)

★犭へんに粦

[朝鮮新報 2005.5.19]