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〈日本の過去を告発する〉 「慰安婦」として連行された朴永心さん(83)

 日本の敗戦から今年で60年を迎える。しかし、日本は朝鮮をはじめとするアジア諸国に犯した罪に対し、補償はおろか心からの謝罪すらしていない。最近では歴史わい曲の動きとともに「独島領有権」を主張するなど、軍国主義へ回帰する動きを見せている。朝鮮植民地支配時代、日本は840余万人の青壮年を「徴用」「徴兵」で強制的に連行したばかりでなく、20万人の女性を「慰安婦」という名の性奴隷にした。光復から60年が過ぎ、被害者らは日本に対する恨(ハン)を抱いたまま、一人、二人と息を引き取っている。現在生存している被害者らも、虐待による後遺症により、日常生活に大きな支障をきたしている。日本が犯した罪業について語るとき、彼らは口を揃えて「日本がひざまずいて補償するまでは、死ぬに死ねない」と話す。今号から彼らの体験談を紹介していく。

「日本人はケモノのようだ」

[略歴]:1921年12月15日、南浦市江西区域で生まれる。南浦市の洋服店で働いていた1938年3月、日本人巡査に連行され中国・南京の錦繍路「慰安所」で約3年、ミャンマー・ラングーン付近の羅州「慰安所」で2年を過ごした。中国とミャンマー国境地帯の松山の「慰安所」にいる時に解放を迎え、日本軍敗残兵とともに昆明捕虜収容所で7カ月を過ごした後、故郷に戻る。

 早くに母を亡くし、継母と炭鉱で働く父のもとで育った私は14歳の時、南浦市の洋服店で食事係として働いていた。1938年3月のある日、日本人巡査が店に来て、「いい仕事があるから紹介してやる」と言った。私は、「両親に聞かないといけない」と抵抗したが、無理やり車と汽車に乗せ、どこかに連れて行かれた。移動している間、監視が厳しくてトイレにも行けなかった。その時になって初めて「いい仕事があるのではない。騙された」と思ったが、時はすでに遅かった。

 私が最初に連れて行かれたのは、中国・南京だった。南京には日本軍の兵営が多かったが、そのうちの一つから約500メートル離れたところに「慰安所」があった。「慰安所」は3階建てのレンガ造りの建物で、各部屋の大きさは2×2.5メートルくらい。部屋の中央にベッドが一つずつ置かれていた。

 自分にあてがわれた部屋に入った瞬間、私は鳥肌が立ったが、ここで何が起きるかはまだわからなかった。軍人が部屋に入ってきて初めて何をされるか悟った私は、絶対応じないと抵抗した。するとその軍人は、殴る蹴るなどの暴行を加えた後、軍刀を私の首にあてがい、「これでも応じないか」と脅した。

 その日から私は1日約30人の軍人を相手に「性奉仕」をしなければならなかった。毎日のように押し寄せる軍人の相手をするので、あまりにもつらくて応じまいと抵抗したことも何回もあった。そんな時、軍人らは私を殴打し、時には軍刀で刺したりしながら、みずからの欲求を満たした。こんなつらい生活が続くので、阿片を飲んでこらえようと思ったが、何の役にも立たなかった。死ぬに死ねず、生きるにはあまりにもつらくて…。

 日本人は本当にケモノのような奴らだ。ある日、「飯もろくに食ってないから、今日は肉入りスープをご馳走してやる」と言いながら、私たちにスープをくれた。何も知らずに食べた私たちを見て、奴らはそのスープは朝鮮の女の肉で作ったスープだと言いながら笑った。自分たちの要求に応じなかった女性を殺し、鍋で煮たというのだ。

 その後、私は中国各地の「慰安所」を連れまわされているうちに解放を迎え、中国人に助けられてやっとの思いで故郷に帰ってきた。

 両親はすでに亡くなり、叔父だけが故郷で暮らしていた。私は長い「慰安婦」生活のせいで子宮を取り出した。そのうえ神経衰弱などで廃人同様になってしまった。

 今でも夜中にあの頃の出来事が頭をよぎり、眠りから覚めることがある。

 私はこの恨みを晴らすまでは絶対に死ねない。(整理=李松鶴記者)

[朝鮮新報 2005.5.19]