〈朝鮮近代史点描-12-〉 義兵闘争の展開 |
Q 日本公使による明成皇后(閔妃)虐殺の結果、成立した親日政権は、次々に改革案を出したといいますが、それはどうなったのでしょう。 A それが問題です。日本人によって国母明成皇后が惨殺されたという衝撃的なニュースは、日本人に対する国民の憤怒を呼び起こしました。 そうした雰囲気の中で、新しく改編された金弘集内閣は、新しく赴任してきた日本公使と日本人顧問官が強要する「改革」を押し進めるほかなかったのです。 内閣は、国王が親露政策に転換する(1896年2月)までの170日間に、140余件の法令を乱発するのですが、その中には小学校令、旧暦をやめ太陽暦にするなどの法令が含まれていましたが、とにかく日本の強要のもとに一朝にして永い習慣を破り捨てることに対する反発が強く働いていました。 とくに断髪令を出し、即日それを政府官吏、軍人に強行し、はては道行く人を捕まえて断髪を強制したために、全国は騒然となってしまいました。 断髪とは、サントゥ(雌燈)という、結婚した男子が髪を結い上げ、頭の上で結ぶまげを切れというのです。これは孔子の教えに基づく朝鮮固有の風俗に対する全面的な否定と受け取られ、「わが首は切られるとも、断髪はできぬ」(崔益鉉)と叫びながら、国母の仇を討ち、朝鮮の国権を守るためにと、各地で衛正斥邪論(伝統的な儒教の価値観を守り、外国の侵略を排撃する)の儒生たちを中心に続々と義兵闘争に立ち上がったのです。 日本では、伝統的な丁髷を切って散切り頭にすれば、文明開化の味がすると歓迎された西洋の風俗が、朝鮮では、自国の良風美俗を否定する親日派のやり方だと受け取られてしまったのは不幸なことでした。 民衆の反日感情は、義兵闘争となって噴出します。明成皇后虐殺の直後から中部朝鮮で始められた義兵の蜂起は、翌1896年3月には全国に波及し、親日派の地方官や、日本人への襲撃と殺害、軍用電信線切断などの妨害活動を展開します。 とくに有名なのは、全国に名前を知られた儒者である柳麟錫(1842〜1915)を義兵将とする儒生たちの組織で、金弘集内閣の崩壊後も忠清道の忠州や堤川などで戦いを継続し、日本の守備隊や政府軍と交戦します。 柳麟錫の場合、注目されるのは国内で活動できなくなると、鴨緑江を越えて西間島に舞台を移し、独立運動を展開したことです。そして今から百年前の1905年、韓日保護条約が発表されるや、再び全国各地に新たな平民出身の指導者による義兵闘争が激発し、日本軍に対して本格的な独立戦争を展開するのです。その激しさは1908年だけでも日本軍との交戦は1796回、義兵参加者は8万2767人と記録されています。 まさに全民族的な抗日独立戦争であったわけです。(金哲央、朝鮮大学校元教授) [朝鮮新報 2005.5.14] |