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〈朝鮮近代史点描-11-〉 明成皇后(閔妃)虐殺事件

 Q ソウル駐在の日本公使が、直接指揮して朝鮮国王の妃を虐殺したといいますが、本当にそんなことがありえたのでしょうか。

 A 世界史にも例のない野蛮で破廉恥なことをしておいて、なんの反省もなく押し隠して、無かったことにしようというのが日本当局のやり方です。

 明治の初めから、国力を傾けて軍備強化に集中してきた甲斐あって清国に勝利した日本は、宣戦布告で「朝鮮の独立保障と清国領土への野心のないこと」を宣言したことも忘れ果て、朝鮮の背後にあり北京ののど元に位置する遼東半島と、南進のための台湾および澎湖島の割譲、そして巨大な額の賠償金と通商特権を要求して帝国日本の本性を暴露したのでした。これを支えたのは、戦勝気分に酔う日本国民の膨張熱でした。

 ところが、この「日清講和条約」調印の直後、東京駐在の露、独、仏公使は外務省を訪れ、遼東半島領有は東アジアの平和を乱すものであり、それを放棄するよう要求したのです。いわゆる「三国干渉」です。

 日本には清国と戦いをつづけ、さらにロシアと戦争をする力はありません。日本は「臥薪嘗胆」を心に銘じつつ、これを受け入れざるをえませんでした。

 さて、これが朝鮮に伝えられますと、これまで日本の朝鮮に対する暴力的な干渉と独占的な利権獲得に対する、内外の不満が噴出します。

 露、独、米、英などの列国は、日本の朝鮮政策に対する異議を提起、国内では国王高宗の妃である明成皇后(閔妃)とその一族の政権復活です。

 頭の切れる閔妃は、ロシアと連携を深め、日本勢力の追い出しをはかります。

 こうした朝鮮側の政策を覆すために、陸軍中将・三浦梧楼日本公使たちの取った手口は、あまりにも野蛮で犯罪的なものでした。それは、朝鮮兵が大院君をかついでクーデターを行う、と言うものの、実は、日本公使が指揮して日本兵、公使館員、在留日本人が主力となって王宮に侵入し、閔妃を殺害し、国王に迫って親日派政権の樹立を認めさせるというものでした。

 1895年10月8日早朝、ソウル郊外に幽閉中であった大院君をかついで王宮に押し入った日本の悪漢たちは、日本刀を閃かしながら国王夫妻の住む乾清宮に乱入し、宮女を斬りつけながら閔妃を捜し出して殺害し、屍体を辱めたうえで燃やしてしまったのです。

 この乱暴の一部始終を見ていた2人の外国人がいました。宮中にいた米国の軍事教官とロシアの技師です。この2人の通報で、在ソウルの各国公使は厳重抗議。彼らのふざけた言い分は通らなくなります。あわてた日本政府は彼らを召還。形式的な裁判と無罪宣告。

 日本国民は、彼らを凱旋将軍のように迎えたといいます。日本はさらに狂った道を進んでいくのです。(金哲央、朝鮮大学校元教授)

[朝鮮新報 2005.5.12]