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山口・長生炭鉱フォーラム 謝罪と本名刻んだ碑を

 第2次世界大戦下の日本における事故としては最大級と目される長生炭鉱水没事故(1942年2月3日)は、朝鮮人130数人を含む183人の命を一瞬にして奪った。生き埋めとなった犠牲者たちは、今も現場の海底に埋まったままだ。同胞と遺族、市民らは何年もの間、遺骨の収集を求めてきたが、日本政府は63年を経た今でも放置したままだ。

「朝鮮炭鉱」の異名も

フォーラムで発言する「水非常」の会の山口武信代表

 1900年代初期、山口県宇部市は石炭産業が盛んで、最盛期には年間生産量400万トンを誇った。約80%が海底からの採炭で、14年に市内の西岐波で創業した長生炭鉱もその一つだった。22年に発生した水没事故で一時休業。33年に再開したが、42年に再び事故が発生した。

 日本の植民地支配時代、この地域では多くの朝鮮人が働いており、「朝鮮炭鉱」という異名も持っていたという。39年からは「募集」などの名目で約1300人以上の朝鮮人が連行された。逃亡を防ぐ目的で作られた木格子に囲まれた「社宅」に閉じ込められ、危険で過酷な労働を強いられた。

西光寺にある犠牲者の位牌。ほとんどが創氏改名の名前のままだ

 遺族の証言によると事故前日、坑内から大量のネズミが外に出てきた。不吉な予感を感じた労働者たちは、事故の当日、入坑を拒んだが、日本人労務係は木刀で脅し、強引に彼らを押し込んだ。

 42年2月3日未明、1キロ以上沖の海底坑道で異常出水が発生し炭鉱は水没した。この事故で130数人の朝鮮人が一瞬にして命を落とした。

 現在、事故現場にはピーヤと呼ばれる通気、排水口が2本建っているだけだ。残っていた「社宅」も撤去された。

「歴史に刻まなければ」

一行は強風と高波の中、船でピーヤまで向かい調査した

 92年に地元の有志らによって結成され、追悼碑建立、ピーヤの保存、真相解明のための運動を展開してきた「長生炭鉱の『水非常』を歴史に刻む会」は、毎年、遺族らを招いて祭祀を行い、山口県と宇部市などに対応も迫ってきた。

 だが日本政府は、何の対応もとらないまま63年間、放置してきた。しかも、いま現在、水没した坑道と外界を唯一つないでいる2本のピーヤまでも撤去しようとしたという。

 92年3月には、地元選出の国会議員が国会予算委員会分科会で謝罪と追悼のための取り組みを要請したが、外務省関係者らはあいまいな答弁を繰り返した。

 朝鮮人強制連行真相調査団と南朝鮮の日帝強制占領下強制動員真相究明委員会は4月22日、現場周辺を調査し、関係者への聞き取りを行った。23日にはフォーラム「海を越えて 真の友好を−長生炭鉱朝鮮人犠牲者追悼にむけ−」を開催し、遺骨の収集、追悼碑建立などを訴えた。

 「『水非常』の会」の島敞史氏は「事故後数十年間、事故はタブーとされていた。建立された碑には、多くの朝鮮人が亡くなった事実が記されていない。朝鮮に対する日本の不当な行為を認め、謝罪し、歴史に刻まなければならない」と述べた。

位牌は創氏改名のまま

長生炭鉱のピーヤ

 事故発生40年に際して、炭鉱関係者らによって、やっと追悼碑が建立された。だが、「誰が亡くなったのかわからない。犠牲者の本名を刻み、反省と謝罪を記さなければならない」(「『水非常』の会」山口武信代表)。

 追悼碑近辺の墓地に、22年の事故に関する追悼碑が建てられている。犠牲者全員の氏名が彫られており、朝鮮人1人の名前も確認できる。

 事故発生直後、泣き叫び職員に詰め寄る遺族らを鎮圧するため憲兵や特高警察が出動した。当時の経営者側は、地元の西光寺に依頼し、位牌を作成。187個の位牌が今も残っているが、ほとんどが創氏改名された名前のままだ。

 南朝鮮の真相究明委は、日本での最初の現地調査にこの地を選んだ。申栄淑調査2課長は「保存のために尽力した人たちに感謝する。犠牲者全員の身元を明らかにできないまま訪れたのが恥ずかしい。謝罪を記し、歴史に刻むよう、最善を尽くす」と述べた。

 洪祥進・調査団中央本部朝鮮人側事務局長は、これまで日本政府が放置してきたことは国際法、人権条約に違反していると指摘。「日本は自国のためにも過去の加害責任を認め、遺族らの要請に速やかに応じるべきだ」と述べた。(李泰鎬記者)

[朝鮮新報 2005.5.7]