〈朝鮮近代史点描-7-〉 甲申政変の挫折 |
Q 金玉均たちが1884年に企てた甲申政変は、なぜ失敗したのでしょうか。それでも朝鮮における最初のブルジョワ改革運動と言えるのでしょうか。 A 当時、国政を担当していた閔氏政権は、清国に頼って政権の維持をはかりましたが、ひどい財政難に陥り、政治顧問のドイツ人メルレンドルフの意見に従って「当五銭」という、質の悪い新貨幣を鋳造して当面の財政難を打開しようとしました。 開化派はこれに反対して外国からの借款導入を建議し、金玉均は王の委任状を持って日本に行き、日本政府や民間に借款の働きかけを行ったものの、当時、日本もそんな余裕はなく失敗に終わりました。そしてこれらのことが契機となって開化派と保守派の反目は強まり、開化派は窮地に陥っていきます。 危機に直面した開化派は、政変によって閔氏政権を崩壊させ、かつ清国との従属関係を断ち切ろうとします。 しかしこの場合、ただちに問題となるのは、閔氏政権と密接な関係にあるソウル駐在の清兵1500名です。開化派が王を擁して政権を掌握したとしても、政権を守る武力がありません。この時に、急に開化派に接近してきたのが、ソウル駐在の日本公使竹添でした。 彼は、本国政府の指示により、開化派を助けて政権に就かせ、清の勢力を排除して日本権益の拡大をもくろんだのです。彼は金玉均に豪語します。「わが日本の精兵200名があれば、清国兵1500など物の数にもならない」と。 政変の準備は急速に進められ、1884年12月4日、郵政局開局祝賀宴を利用して決行と定められました。 まず開化派たちは、宴の途中で付近の民家に火をつけ、国王に清兵が反乱したと偽り、王を景祐宮に移し、駆けつけた閔氏政権の頭目たちを殺しました。翌日、開化派は新政権を組織し、近代的な変革をめざす政綱を作ります。14項目といわれますが、清に対する従属関係の清算、門閥廃止と人民平等権の制定、能力に応じた人材登用、地粗法改革、貪官汚吏処罰、財政の一元化、警察制度の実施などです。3日目、清軍の攻撃が始まると、豪語していた日本軍はたちまち敗退し、金玉均らは王を残して日本公使と共に仁川から日本に亡命します。残った同志たちは家族もろともすべて犠牲になってしまいます(封建的連座制)。 さて、もう失敗の原因は、おわかりでしょう。@政権を守るのに、外国兵をあてにしたこと、A人民が参加しない、上からの政変劇だったことです。しかし、初めて近代的な立憲君主制を目指し、人民平等を志向したことで、ブルジョワ的改革運動であったと言われるのです。(金哲央、朝鮮大学校元教授) [朝鮮新報 2005.4.26] |