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〈朝鮮近代史点描-6-〉 開化派の形成と世論

 Q 開化政策を推し進めようとした開化派は、どのように形成されたのでしょうか。

 A わが国が日本に対し、開国する以前から実学派の影響を受けていた人たちは、世界各国に開国し貿易をして誠意をもって外交をすれば、国は富み、世界平和は実現できるのだと考えはじめていました。

 崔漢綺も若い時から、そのような意見を持っていましたし、政府高官として何度も使節団を率い、清国に往来した朴珪寿(1807〜77年、朴趾源の孫、シャーマン号事件の時の平安道知事)も世界情勢に明るく、文明開化の必要なことを後輩の金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、兪吉濬たちに説いていたのです。

 朴珪寿を助けてこれら青年両班に刺激を与えたのが、訳官としてしばしば中国に随行した呉慶錫(1831〜79年)であり、その親友の劉大致(1831〜?、漢方医)でした。

 朴珪寿たちの啓蒙を受けた若手の金玉均、朴泳孝たちが政府の官僚として活躍しだすと、日本にも往来しその文明開化の有様を目撃したし、福沢諭吉などの洋学派と交際が生じると「日本が東洋のイギリスとなるならば、朝鮮は東洋のフランスとなるのだ」と決意を固め、保守派の政府高官たちに世界の大勢を知ってもらおうと日本への紳士遊覧団を組織し、また、その夫人たちの遊覧団も組織しました。これは、二つとも好評で文明開化への世論の喚起に大きな効果がありました。

 しかし、開化派官僚たちの当面の目標である「汽車と外輪船(汽船)を持つ国」となるためには資本がありません。生まれて間もない民族資本家の努力にもかかわらず、鉄道施設権、電燈と電線施設権などが次々に外国資本に奪われていきました。

 こうして文明開化の必要は認めながら、同時に「洋夷侵犯」、とくに「洋化した日本」勢力の浸透に対する危機意識も高まっていったのです。

 このような複雑な環境の中でも、政府は新聞刊行のための博文局、新貨幣発行のための典圜局をはじめ、機器局(兵器製造)、郵政局などを新設し、農業、織物、牧畜、紙茶などの担当部署を新たに設けたし、外交や貿易部門の人材養成のため外国語学校も発足させました。

 また、金玉均や朴泳孝の建議によって実業、軍事教育を受けるため、40余名の留学生を日本に送ります。彼らは戸山の陸軍士官学校や慶應義塾などの私立学校に入学し、富国強兵の新国家建設の誇りをもって、熱心に学びますが、その中には兪吉濬のような人も入っていました。(金哲央、朝鮮大学校元教授)

[朝鮮新報 2005.4.23]