〈朝鮮近代史点描-4-〉 日本軍艦による開国強要 |
Q なぜ、できたばかりの明治政府によって、朝鮮は開国するようになったのでしょうか。 A 大院君の鎖国攘夷の政策は、成功するかに見えました。不当な外国船の侵入に対し、わが国の人民も軍隊も勇敢に闘い、国を守ろうとしたのです。 ところが、大院君や政権担当者は、新しい世界の動きに敏感でなく、新しい世界の流れにそなえて自らを改革することなく、保守的な清国への事大主義さえ守っていれば大丈夫だと考えていました。 また、この時、欧米各国は、それぞれ国内に大きな矛盾を抱え(注参照)、アジア各国に圧力を加えられず、朝鮮の開国は、日本の軍事力に期待しようという雰囲気さえ生まれていました(注…東洋侵略の尖端を切っていた英国は、インドでセポイの大反乱に遭い、その後始末に忙しく、露はシベリア沿海州の開拓に、仏は新しく獲得したベトナムの経営に、米国は南北戦争の後始末に忙しかったのです)。 1854年に開国し、欧米諸国と修交した日本は、西洋に学び、全力を尽くして近代国家へ転身するため、富国強兵に努めていました。 そして1870年、日本は、朝鮮に新政権の成立を知らせ、新しい形式の国交を求めたのです。ただし「天皇」の親政を知らせるその国書には、これまでの平等主義の原則を破った、無礼な言葉がふくまれていました。朝鮮政府は拒否します。 さらに、海外の事情に疎い一部の権力者や儒学者たちは、洋服を着て異様船に乗り、砲艦外交をしようとする日本人はまさに洋夷であり、彼らの通商要求は「洋夷侵犯」そのものではないかと考えたのです。 「明治の元勲」たちの指導者である吉田松陰は「欧米諸国から侵犯された国益は、朝鮮、中国へ行って取り返せ」と説いていたといいます。日本国内では、急速に「征韓論」がわき上がります。 ここで米国が登場します。米公使は、日本の当局者に「ペリー遠征記」を渡し、「ペリーが日本にしたように、今度は、日本が朝鮮にする時がきたのではないか」と励ますのです。 1875年9月、充分に装備した「雲揚」号が、江華島近海に接近、砲台より警告の発砲を受けるや、これを待っていた彼らは、砲台を集中砲撃して破壊、翌年開国交渉のため、再航することを告げて去りました。翌1876年2月、日本艦隊は海戦演習と称して、巨砲を発射しつつ江華府に上陸、日本の条約案を押し付け、日朝修交条規としたのです。(金哲央、朝鮮大学校元教授) [朝鮮新報 2005.4.19] |