top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮近代史点描-3-〉 異様船の侵入

 Q 朝鮮では「黒船」のことを異様船と呼んでいたといいますが、朝鮮の開国は、それら異様船の来訪がきっかけになったのでしょうか。

 A そうです。見なれていた船とはちがう、おかしな船という意味で、異様船と呼んだのでした。

 この異様船は、いうまでもなく欧米の船で、18世紀頃から東南アジアや東北アジアに通商、または植民地化の野望をもって進出してきたものです。

 日本では、米国のペリーが1853年、東インド艦隊を率いて浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出し、翌年には江戸湾に来て示威し、幕府はついに和親条約を結びます。これはその後、尊皇攘夷の世論を呼び起こし、江戸幕府はその13年後に滅び、明治維新となったのです。

 朝鮮にも同じ頃、欧米諸国からの異様船が開国通商を求めて次々と来航してきます。その代表的なものだけをいくつか述べましょう。

 1866年、悪名高い米国のジェネラル・シャーマン号が、大同江を遡り、平壌にやって来て、略奪・強盗など勝手に振る舞い、朝鮮官民の怒りを買い、火攻めにあって全滅します。

 同年秋、こんどは仏艦隊3隻が来航して江華府を占領し、兵器や大量の書籍を略奪しますが、朝鮮軍人の頑強な反撃にあい、意外に多くの死傷者を出して退却します。

 政権を担当していた大院君は意気軒昂で、さらに強く鎖国攘夷を全国に命じたのでした。

 ところが1868年、早くから上海に来ていかがわしい貿易をしていた独商人オッペルトは、仏宣教師アベ・フェロン、米国人ジェンキンスと組んで実に破廉恥な企みをしていたのです。

 それは、仁川の南方、忠清道徳川郡にある大院君の父、南延君の陵を白昼公然と盗掘し、その遺骨と副葬品を奪い、その遺骨をカタに莫大な身代金を奪い、かつできれば開国を迫るというもの。

 満潮を利用して牙山湾深く入り、やっと陵に着き、陵を暴き始めたのですが、花崗岩の側壁に妨げられ、作業は遅々として進まず、やがて、引き潮の時間となり退去。地方の守備兵の攻撃を受け、何人かの死傷者を出して逃亡したのです。

 これは、さすがに上海に来ていた外国人の間で国際的な朝鮮王陵盗掘事件として、問題になったといいます。

 つづいて1871年、米国のアジア艦隊は、シャーマン号事件の報復と開国要求のため本格的な江華島攻撃を行います。朝鮮守備隊は、頑強に闘い、多数の犠牲者を出しながらも、米軍を撃退したのです。(金哲央、朝鮮大学校元教授)

[朝鮮新報 2005.4.16]