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〈朝鮮近代史点描-2-〉 西洋の科学技術に学ぶ

 Q 日本の江戸時代末期には、蘭学派とか洋学派とかいう人が出てきますが、わが国には、洋学はなかったのでしょうか?

 A 実学派といわれる人の中でも、洪大容(1731〜83)とか、朴趾源(1737〜1805)などは、朝鮮王朝が清に派遣する使節団に加わって燕京(北京)に行き、中国に来ていた天主教の宣教師たちが漢訳した西洋の科学技術書や、望遠鏡、自鳴鐘(西洋時計)などを持ち帰り、研究を始めます。実学の集大成者といわれる丁若縺i1762〜1836)と、その兄弟たちも西洋の学問を研究しますが、保守的な反対派によって、禁教である天主教徒だとして弾圧(1801年、辛酉邪獄)され、次兄の若銓は黒山島に流配、三兄の若鐘は獄死、若緕ゥ身は、きびしい取り調べの後、全羅南道の康津に18年間の流配となります。

 この時、多くの優れた学者が犠牲となりました。

 ここで注意しなければならないのは、江戸幕府と違って朝鮮王朝の権力者は、天主教への信仰と西洋科学の研究を区別せず、この2つを共に「西学」として全面禁止してしまったことです。このことによって朝鮮では、その後の西洋科学の研究に大きな障害が作られます。

 Q それでは、朝鮮では「洋学者」というような人は現れなかったのでしょうか。

 A そうですね。実学派の中の北学派といわれる人々は、北の国(清朝)のすぐれた文物を学ぼうといいながら、清にきていた西洋の文物を受け入れようとしましたが、本格的な西洋科学の研究は、1876年の開国以後だと思われていました。

 ところが解放後、朝鮮民主主義人民共和国が初めて「朝鮮哲学史」(1960年)を編さんする過程で発掘された崔漢綺(1803〜77)という人がいますが、この人は「近代的唯物論に近い主張をした思想家」といわれ、筆者も驚き、朝鮮の文化遺産を徹底して略奪してきた日本であるから、この人の著作も日本に来ているはずだと、探索を続けたところ、はたして彼の主著ともいうべき「人政」(25巻)をはじめ、これまで知られていなかった著作が次々と出てきたのです。

 筆者が「人政」の中の、彼の進歩的な教育思想を学会に発表(1963年)すると、北南の研究者が驚き、その後、とくに南で李佑成先生や権五栄さんの努力で、彼が誰よりも早く、大量に中国で漢訳された西洋の科学書(天文、世界地理、物理、数学、医学など)を入手し、それを消化し、編さんして、ぼう大な著作を残していたことがわかったのです。彼こそ、わが国で初の「洋学者」といえるでしょう。「近代」はすぐ近くまで来ていたのです。(金哲央、朝鮮大学校元教授)

[朝鮮新報 2005.4.12]