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〈朝鮮近代史点描-1-〉 近代の胎動

 Q 古代から日本に高度な文化と技術を伝えてきた朝鮮がなぜ近代になって苦汁の歴史を強いられることになったのでしょうか。

 A いやあー、難しい質問です。これは、一口に説明できませんので、その質問を常に念頭におきながら、まず開国に至る19世紀後半頃の朝鮮の社会を眺めてみましょう。

 かつて一部の歴史家は「停滞史観」「他律性史観」によって、あたかも朝鮮が発展が遅く、自力で発展できない社会であると主張しました。これは、日本の植民地からの解放後、北南の研究者によって改められてきましたが、その根拠が広く理解されているわけではありません。

 それを筆者なりにまとめてみますと、封建制度が温存するかぎり近代とは言えませんが、その中で第1に、17世紀後半以後の商品、貨幣経済の発展があります。5日に1回定まった場所で開かれる「場市」は、18世紀には全国千余カ所に成立し、小農民が貨幣を媒介とする商品経済に参加するようになり、店舗をもって収買、卸売りを営む客主・旅閣、商品を背負って場市を巡る褓負商などが現れます。

 18世紀後半になると、客主などを介して、咸鏡道の明太と慶尚道の綿布、平安道の絹織物と、忠清道の芋布などの特産物交換ルートが形成され、全国市場を牛耳る松商(開城商人)や、ソウルへの米の集散をおさえる京江商人、対清貿易を扱う湾商(義州商人)などの、有力なグループが出てきます。彼らの発行する高額面の商品手形である、於音がだっ換紙幣として通用するようになります。

 従来の「両班地主」と異なる「庶民地主」が登場し、農業生産力も向上しますし、手工業と鉱業が発展します。両班の身分まで金で買えるようになり、奴婢も金を蓄え、身代金を納めて「良人」になってしまいます。つまり、封建的な身分制度が土台から崩壊していくのです。

 第2に、支配階級内部でも、従来の教条的な朱子学に批判的な、実学派と呼ばれる学派(朴趾源、丁若繧ネど)が現れ、「実事求是、利用厚生」を主張し、この学風はその後、近代化を指向する商工人や開化派(金玉均など)に受け継がれていきます。

 第3に、封建政府から民心は離れ、全国的な農民の反乱が続いて起きます。つまり、新しい生産力と、生産関係の生長にともない、新しい価値観、思想が現れてくるのです。

(日本の朝鮮侵略から100年。今号から、朝鮮近代史を概説的にではなく、いくつかの大きなテーマ、事件、あるいは、人物などを中心にして問答式に見ていきたいと思います。)(金哲央、朝鮮大学校元教授)

[朝鮮新報 2005.4.9]