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3年目迎えた入学おめでとう応援隊A 「暴力から子どもを守ろう」

多文化共生社会をめざして(04年「あーすフェスタかながわ」)

 2002年9月17日、日本の小泉総理が訪朝し、金正日国防委員長と会談したその日から、日本各地にある朝鮮学校には「朝鮮人は殺すぞ」という類の脅迫電話が鳴り響き、学校に通う子どもたちは制服(チマチョゴリ)を刃物で切られるなど、過酷な暴力にさらされた。これは首脳会談で公式的に明らかになった日本人拉致事件によるものだった。

 また、情けないことに朝鮮学校の学生たちが暴力を受けていても、周りの日本人乗客たちは見て見ぬふりをしてその行為を放置する例が続出した。たくさんの日本人たちが見ている中で暴力を受けた学生たちの心情はどうだろうか? 孤立感と無力感のすえに、日本人に対する敵愾心が当然、生まれただろう。

 一部のマスコミはこうした朝鮮学校に対する脅迫事件を部分的に報道したが、むしろ「未確認情報」としつつ「日本人拉致事件に朝鮮総連も関与」などの報道を意図的に垂れ流すことで、在日コリアンに対する「自業自得」という冷淡な雰囲気を作り出した。子どもたちの安全を守るために保護者と教職員たちは交代で登下校に同行しなければならず、その疲労は極限に達していた。

 応援隊は、そうした状況に胸を痛めた志ある日本人たちが集まり、03年春に始まった。03年度に初めて始まった時は、発起人として李仁夏(在日大韓基督教会川崎教会名誉牧師)、風巻浩(高校教員)、北村真砂子、金廣照(外国籍県民かながわ会議前委員長)、ムハンマド・バシル(外国籍県民かながわ会議前委員)、山根誠之(横浜YMCA総主事)、横川芳江(特定非営利活動法人地球の木)、小田切督剛(朝鮮史研究会セビョク)が集まった。入学式とその後一週間程度、駅から学校までの道を巡回し、見守る活動を繰り広げた。04年と05年は入学式のみに特化して活動した。

「多文化共生」めざし

 応援隊活動の基盤となったものとして、神奈川県庁が主導して98年に始まった「外国籍県民かながわ会議」(以下「県民会議」)と、2000年に始まった「川崎・富川高校生フォーラム・ハナ」(以下「ハナ」)を挙げることができる。

 県民会議は、神奈川県に住む各国・地域を代表する委員たちが集まり、外国人市民として被っている問題について調査し、改善策を論議し、神奈川県知事に対して政策を提言する機構である。課題別分科会の一つとして「教育分科会」があり、朝鮮学校の教員や保護者が教育分科会に委員として入ることで、朝鮮学校に対する偏見や先入観が少しずつ改善され、また朝鮮学校が直面している問題が中華学校など他の民族学校と共通しているという認識が広がり、連帯活動を始めるきっかけにもなった。

 また、県民会議と同じ時期に設立された「NGOかながわ国際協力会議」や「あーすフェスタかながわ実行委員会」で共に活動する機会が増えたことで、朝鮮学校を単に日朝関係の観点でばかり見るのでなく、日本社会をより豊かな文化が共存する「多文化共生社会」へ変化させる役割を担っているという認識が広まったのである。また、朝鮮学校は学生数が多くなく財政的に困難に直面しているが、学生数が多い公立学校よりもむしろ教員と学生たちがよくコミュニケーションできており、学生同士の人間関係も良いという「オルタナティブスクール」という側面からも注目を浴びるきっかけとなった。

 こうした雰囲気を背景として始まった活動がハナである。神奈川朝鮮高級学校に通う学生たちと、高校に通う日本人学生、そして川崎市の国際友好都市である韓国・富川(プチョン)市の韓国人学生たちが交流団体を組織して、夏は富川で、冬は川崎で交流会を開いている。交流が始まった当初は「国家保安法に引っかかるのではないか?」「朝鮮学校は北韓人(プッカンサラム)の学校」と誤解していた韓国人学生もいたが、02年からは朝鮮籍の在日コリアン学生も一緒に交流を楽しんできた。日本人学生たちが朝鮮学校に対する偏見を克服し共に活動する姿を見ることで、韓国人学生たちも朝鮮学校に対する先入観が変わったのである。(小田切督剛、「入学おめでとう応援隊」発起人)(つづく)

[朝鮮新報 2005.5.16]