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《コリアン学生学術フォーラム2005》統一コリア賞受賞論文 日本政府の過去清算における「個人請求権放棄」論の非清算性に関する一考案

論文テーマ:自由論文(人権と社会福祉)
字数:11、976
名前:梁泰準
学校:朝鮮大学校 政治経済学部 法律学科
学年:4年
メールアドレス:cafe-anne1991@hotmail.co.jp

△目次

−序章−

第一章 「請求権放棄」論の問題の所在

第一節 「協定」第2条の請求権の実体
第二節 「協定」で個人請求権が排除された原因
第三節 「協定」における「請求権放棄」条項の本質

第二章 日本政府の「個人請求権をも放棄」論について

第一節 日本政府の「外交的保護権のみ放棄」論
第二節 「外交的保護権のみ放棄」論から「個人請求権をも放棄」論への転換
1.日本政府が「外交的保護権のみ放棄」論を主張した理由
2.「柳井答弁」の波紋
3.「個人請求権をも放棄」論への転換
第三節 「ウォーカー判決」の論理
1.判決要旨
2.「ウォーカー判決」と日本の判決の違い
第四節 日本政府の「個人請求権をも放棄」論の成立
1.「オランダPOW控訴審の準備書面」(2001.2.27)
2.「海老原答弁」の真意(2001.3.22)
3.「オランダPOW控訴審判決」(2001.10.11)

−終章−

△参考文献

−序章−

 過去の植民地支配の清算をするために韓日間(1)では、14年間にわたって国交正常化交渉が行われた。その交渉の中で請求権問題(2)は核心的な議論であったが、結局、戦争被害者の賠償、補償要求(3)と植民地支配の清算問題は棚上げにされ、1965年に「大韓民国と日本国との間の基本関係に関する条約」が締結された。また、韓日間の財産、請求権問題については「財産および請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する大韓民国と日本国との間の協定」が締結され(以下、「協定」と略す)、韓日間の過去の清算は最終的に日本が10年間に亘って韓国に無償3億ドル、有償2億ドルを提供する「経済協力方式」という政治的妥結で解決された。そしてそのことが、現在にまで続く戦後処理問題を生み出す原因となったのである(4)。なぜなら、何よりも請求権問題が過去の歴史認識を反映したものであったからである(5)。これに関連して日本政府の戦後処理問題に対する原則的な立場は、「…二国間の賠償、請求権問題は、サンフランシスコ条約等の戦後処理のための一連の条約と、その誠実な履行により国家間では解決済みである」(6)としている。このような立場から、日本の戦後処理条約における請求権放棄条項の解釈は現在、最終的に対日平和条約により国家、個人のすべての請求権は放棄したことを意味する「個人請求権をも放棄」論を主張している。しかしこれとは裏腹に、日本の戦後処理の是非をめぐる問題提起がアジア諸国を筆頭に、世界中で依然としてあい継いでいるのが現状である(7)。このように請求権問題をめぐる争点は複雑かつ重層的であり、問題の所在を明らかすることが求められている。

 本論文においては、上述のような問題意識を踏まえつつ、日本の戦後処理条約(「協定」と対日平和条約)での請求権放棄条項(8)の解釈に基づく「請求権放棄」論(「個人請求権をも放棄」論)(9)を主たる研究対象とする。

 ここで、本論文の研究対象である日本政府の「請求権放棄」論について説明する。日本政府の「請求権放棄」論には日本の戦後処理条約での請求権放棄条項の解釈により、「外交的保護権のみ放棄」論と「個人請求権をも放棄」論とがある。国際法上、外国人がその在留する国において不法な取り扱いを受けた場合、国家が外交手続によって自国民救済を行う権利のことを外交的保護権(10)と言い、個人が直接相手国に請求権を行使する権利のことを個人の請求権(11)と言う。そして「外交的保護権のみ放棄」論はそれら国際法上の請求権のうち、外交的保護権のみが放棄されたとの主張を言い、「個人請求権をも放棄」論はそれら両方が放棄され、救済の余地がないとの主張を言う。なお、「請求権放棄」論の問題の所在については、第一章で詳しく述べることにする。

 「請求権放棄」論を扱った従来の研究は、特に請求権問題をめぐる韓日交渉史にスポットをあてて、請求権交渉の議論を歴史的に解明してきたと言えよう(12)。しかし、これら先行研究には、1965年以降から現在に至る請求権放棄条項に対する日本政府の主張の分析が欠如している。また、これらは歴史学の立場からのアプローチによっているため(13)、請求権問題の法的側面の検討が欠如している(14)。

 さて、本論文では上述した先行研究の成果を踏まえながらも、先行研究では十分に描かれなかった「請求権放棄」論の法的検討という視点から、以下のような研究目的を設定した。その研究目的とは第一に、「協定」の請求権放棄条項の検討を通じて、「請求権放棄」論の問題の所在を明らかにする。

 第二に、日本政府が現在主張する「個人請求権をも放棄」論の成立過程を整理して、日本政府の「請求権放棄」論の不当性を明らかにする。

 では、このような研究目的に対する本論文のアプローチを提示したい。第一章は「請求権放棄」論の問題の所在として「協定」の請求権放棄条項に焦点をあて、その「請求権」の実体とそのような実体となった原因を明らかにし、「協定」で放棄された「請求権」とは一体何であったのかを検討する。

 第二章は日本政府の「個人請求権をも放棄」論に焦点をあてる。第一に、「外交的保護権のみ放棄」論について概説し、何故「外交的保護権のみ放棄」論から「個人請求権をも放棄」論へ転換するようになったのかを検討する。第二に「個人請求権をも放棄」論の成立に大きな影響を与えた「ウォーカー判決」の論理について分析する。第三に、「個人請求権をも放棄」論へ転換したターニング・ポイントとなる戦後補償裁判を取り上げ、「個人請求権をも放棄」論の成立を立証する。

 これらの作業を通じて、日本政府の「請求権放棄」論の問題性を明らかにすることが本論文の最終的な課題である。

(1)〜(14)までの説明

(1)ここで韓日、朝日の用語法について説明しておく。本来ひとつであるはずの朝鮮半島には現在、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の二つの国家が存在するという分断状況であるため、朝日という用語を使用する時は朝鮮民主主義人民共和国と日本の関係を指すものとする。そして大韓民国と日本との間の関係及び諸条約の名称を指すときは韓日という用語を使用する。

(2)植民地支配、戦争による被害と損害の清算をするために討議された問題を請求権問題とする。

(3)ここで、賠償、補償、請求権の概念について整理しておく。まず現在一般的に使われている用法について見てみる。賠償とは敗戦国が戦争で発生した被害、損害、損失に対して支払うものであり、被害の回復を意味する。補償とは被害者に対する個別的な金銭の支払いを言う。請求権とは被害や損失に対して請求する正当な権利を表す。このような用法は20世紀の国際社会の中で使われた概念であり、決して現在の状況を規定するものではない。なぜならば、20世紀初めの国際法とは基本的に帝国主義国家の利益を擁護するための法であったので、その中で規定された概念もやはりそれに準ずるものだと考えられるからである。つまりこのような用法は絶対的かつ普遍的な概念ではない。現在日本では戦争による被害や損失の償いのことを補償と呼んでいる。その原因は佐藤健生の誤った認識が一般化されたからであると山手治之は指摘している。なお本論文では次のように用語を用いる。国際法上の補償は適法行為による結果についてなされるものであり、日本の植民地支配の行為には不適切である。他方、賠償は違法行為の結果であり、処罰義務も伴われる適切な用語といえる。よって、本論文では朝日・韓日間の過去清算の本質は日本の植民地支配の清算にあることから、その意味での賠償という用法を用いる。そして請求権と用いるときは植民地支配の清算に基づく賠償を請求する正当な権利とする。

(4)戦後処理という言葉は、本来戦勝国である連合国側のもので戦争末期ないし直後に論ぜられた、言わば終わったはずの問題であった。にもかかわらず、その言葉が敗戦国である日本自らの取り組むべき問題として今さらのごとく使われている点には議論の余地がある。なおドイツの場合、日本と同じ敗戦国ではあるものの、連合国側の戦後処理を受けて自らの手でそれに取り組んできたところに日本との違いがある。

(5)韓日双方の歴史認識に大きな隔たりが見られるのは植民地支配に対する双方の認識の違いがあるためである。植民地支配に対する日本の「合法支配」論は、「基本条約」第2条の「もはや無効(already null and void)」の具体的な時点がいつなのかを巡って、韓日間に明白な合意が存在しないということにもつながっている。韓国は1910年8月22日のいわゆる韓日併合条約の締結自体が基本的に不法に強要されたことであり、最初からすでに無効だったと解釈している。一方、日本は“already”という字句を入れることによって、少なくとも韓日併合条約が一時的に有効であった時期があると解釈している。つまり、この解釈の違いの根底には植民地支配に対する韓国の「不法強制」論と日本の「合法支配」論がある。

(6)伊藤哲雄、「第二次世界大戦後の日本の賠償、請求権処理」、『外務省調査月報』、1994年度、第一号、p.78。さらにそこでは「現実に日本政府は、戦時中日本軍により占領されたり、あるいは、日本の植民地であったアジア諸国等に対して、戦争中の行為に起因する国、国民間の法的関係が清算され、新たな二国間関係が開始されることを前提に、条約に基づき賠償や経済協力を実施してきている。また、法的義務の履行としてではないが、政治的な措置として、特別なケースの被害者にたいして個別の救済措置も講じてきている。」と述べている。

(7)例えば、2005年9月22日から23日にかけて平壌で開かれた、日本の過去清算を求める国際連帯協議会第3回会議がある。会議には北南朝鮮、日本、中国、中国台北、オランダ、ドイツ、アメリカの戦後補償要求及び人権擁護関連団体、総連をはじめとする海外同胞団体代表団と法律家、学者、研究者らが参加した。2日間にわたって行われた分科会では日本軍性奴隷問題、強制連行及び集団虐殺犯罪問題、原爆被害者問題、日本の歴史歪曲と軍国化、右翼化問題、強制連行被害者遺骨問題などをテーマにさまざまな研究発表と活動報告が行われた。これは国際規模で日本の過去の清算を求めていることを象徴している。

(8)対日平和条約およびその後の二国間協定のうち、植民地支配、戦争による損害と被害の清算の請求権を放棄したことを規定した条項を請求権放棄条項とする。

(9)日本の戦後処理条約における賠償、請求権放棄条項の解釈の「外交的保護権のみ放棄」論と「個人請求権をも放棄」論を一括して述べる時は、「請求権放棄」論という用語を用いる。

(10)外交的保護権が行使されるためには国籍継続の原則と国内的救済の原則が必要である。国籍継続の原則とは、被害者である個人が自己の国籍を持っていることで、しかもこの国籍は侵害を受けたときから外交的保護がなされるまでの間、継続的に保有していなければならないことを言う。国内的救済の原則とは相手国の国内的手続がつくされてもなお、損害に対する救済がえられない場合にはじめて被害者の本国はそれを取り上げ、相手国に対して、外交的保護権にもとづく請求を提出することが認められることである。このような外交的保護権は被害者である個人の意思に関係なく、国家によってこの権利を行使したりしなかったりできるのであるため、在外国民の保護のためには合理的な制度といえない。

(11)個人請求権が行使されるためには、第一に、前提として援用される個人の権利(義務)が条約規定上で具体的に措定されていなければならないこと、第二に、慣習法的に定立されていることが必要である。

(12)韓日会談会議録の分析を通じて請求権交渉の政治的妥結までのプロセス及び内容の問題性を指摘したものとして、李元徳(「日本の戦後処理外交の一研究−日韓国交正常化交渉(1951〜1965)を中心に」、1994年、東京大学博士学位論文)、高崎宗司(『検証 日韓会談』、1996年、岩波新書)、太田修(『日韓交渉 請求権問題の研究』、2003年、クレイン)、吉澤文寿(「戦後日韓関係の展開(1945年から1965年まで)−日韓国交正常化交渉を中心にしてー」、2004年3月、一橋大学博士学位請求論文)の研究がある。

(13)やや乱暴な言い方をすると、先の李元徳は日本の戦後外交史、高崎宗司は「韓日」関係史・日本人の歴史認識の批判検討、太田修は「韓国史の観点」から、吉澤文寿は1945年〜65年の「戦後日韓関係史」の展開の解明から「請求権問題」を扱ったにすぎないのである。

(14)請求権問題を法的側面からアプローチしたものとして、伊藤哲雄(「第二次世界大戦後の日本の賠償、請求権処理」、『外務省調査月報』、1994年度、第一号)、金昌禄(「1965년「한일조약」에 대한 법적재검토」、2005年6月3日〜4日にソウルで行われた「진정한 한일 우호관계를 위한 반성과 제언」という学会での発表論文である。)、広瀬善男(「戦争損害に関する国際法上の個人請求権」、『明治学院論叢第』、646号、2000年)、山手治之(「日本の戦後処理条約における賠償、請求権放棄条項(1)−戦後補償問題との関連においてー」、『京都学園法学』、2001年、第1号、「日本の戦後処理条約における賠償、請求権放棄条項(2)−戦後補償との関連においてー」、『京都学園法学』、2003年、第3号)の研究がある。この中でも山手治之の研究は、「外交的保護権のみ放棄」論から「個人請求権をも放棄」論へ転換した契機を米連邦地裁の「ウォーカー判決」(2000.9.21)の論理に見出している点で注目に値する。

第一章 「請求権放棄」論の問題の所在

 第一節 「協定」第2条の請求権の実体

 まず、日本政府の「請求権放棄」論の実体と不当性を見ていくためにも、その問題の所在を明らかにする。

 「協定」第2条第1項では以下のように規定している。

 「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されるものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。」

 これまで日本で多くの戦後補償裁判が行われてきたが、日本政府はこの規定を土台として、植民地支配の清算が最終的に解決されたと一貫して主張してきた(1)。

 しかし、ここで「協定」第2条第1項の「請求権」の実体についてよく考察してみる必要がある。なぜなら、「協定」によって放棄された「請求権」の不明確性に問題があるからである。ここで、その不明確性の問題を知るための手がかりとして、2005年1月17日に公開された韓日国交正常化交渉における財産請求権関連文書を見てみる(2)。この中でも特に注目されるのは、1964年5月2日、経済企画院長官が「民間人保有対日財産に対する補償措置」に関して、「現在進行している対日交渉は、民間保有対日財産請求権の補償を前提にしたものか、または、個別的な補償を行わないことなのか」と問い合わせたことに対する外務部長官の返事である(3)。その返事として、5月8日に外務部長官は「日本との請求権問題を解決することになれば前記の個人請求権も含まれ解決されるものとなり、したがって政府は個人請求権保有者に対して補償義務を負うことになる」、「当部としては個人が正当な請求権を持っている場合には政府がこれを補償しなければならないと考える」と回答し、韓国政府が個人請求権保有者に対して「補償義務を負う」という見解を示したことが注目される(4)。

 一方、日本政府は将来、個人請求権問題が再燃することに重大な懸念を示し、個人請求権問題を封じ込めるための法的措置を行っていた(5)。その法的措置とは第一に、「財産及び請求権並びに経済協力に関する協定についての合意議事録」2(g)を作成し韓国側に署名させたことであり(6)、第二に、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律」(法律144号)を制定したことである7。さらに、日本政府は交渉において自らが所持している証拠資料を提示しないまま、終始一貫して徹底した法的根拠の提示と事実関係の確認を要求した。植民地支配、戦争によって損失と被害を受けた人々の個人請求権を請求権問題から排除する契機を提供したのは日本側であった。

 以上に挙げた手がかりを総合すると、「協定」第2条第1項の「請求権」の実体とは、外交的保護権を指すものであって、個人請求権についての補償義務は韓国側にあり、日本側は個人請求権を封じ込めるために官僚主義的努力(交渉、法的措置)を行っていたことが確認されたとういうことになろう(8)。

第二節 「協定」で個人請求権が排除された原因

 前節で見てきたように「協定」で、植民地支配、侵略戦争による被害の清算と賠償、特に個人請求権が排除された原因はどこにあるのだろうか。

 その原因は大きく@対日平和条約第4条(9)が「請求権」の内容と意味、性格を明確に規定しなかった点、A韓日交渉が冷戦の強化された時期に行われたという点(10)、B分断体制下の韓国でのナショナリズムの強化と民主主義の抑圧(11)、C日本による植民地支配の歴史隠滅の論理とナショナリズム(12)の4つが挙げられる。この中でも最も大きな影響を与えたのは第一の原因である。対日平和条約は第2次世界大戦の戦後処理とその処理方法について規定した国際法規であり(13)、対日平和条約第4条(a)項の「請求権」規定に基づき韓日間の請求権問題は論議された(14)。そして対日平和条約第4条は請求権問題の処理を韓日間の「特別取極」によって決定すると叙述しただけに過ぎず、まして「請求権」が植民地支配、戦争による損害と被害の清算を規定した概念ではなかった。なぜならば、対日平和条約は過去に植民地を領有していた国家が作成した条約であったために、植民地支配を謝罪し被支配国との合意に基づきその被害を清算するという観点を持ちえなかったのである。このように対日平和条約が、植民地主義の清算問題を条文に明記しなかったのは当然の帰結であったといえる(15)。

第三節 「協定」における「請求権放棄」条項の本質

 以上に挙げた請求権の実体とそのような実体となった原因について分析した結果、「協定」での請求権放棄条項は、過去の清算という意味を全く含まないかたちで妥結されたことが確認できるだろう。つまり、国家レベルの利益のみを考え、「個」の存在を完全にかき消した冷戦構造の下で締結された「協定」第2条の請求権放棄条項は、「植民地主義持続の装置」であり「植民地主義増幅の装置」なのである。すなわち、「経済協力方式」での過去の清算は脱植民地主義であるどころか、植民地主義から新植民地主義への移行にすぎないのである。したがって「協定」第2条の請求権放棄条項とその根底にある対日平和条約の請求権放棄条項(4条、14条、19条)は、最初から植民地支配の清算に基づく個人請求権の実現を追及するものではなかったのである。これが「協定」における請求権放棄条項の本質である。

 このような過去の清算のあり方に対して、アジア諸国民を中心として、1990年代に入り本格的な戦後補償裁判が提起されるに至ったのである(16)。

(1)〜(16)までの説明

(1)例えば、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件(東京地裁2001年3月26日第1審判決、東京高裁2003年7月22日第2審判決、最高裁第二小法廷2004年11月29日判決)がある。なお、この事件については、山手治之著「《判例研究》アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件−日韓請求権協定2条の解釈を中心にー」(『京都学園法学』、2004年、第2.3号)で詳しく述べられている。

(2)公開された文書とは、財産請求権関連文書57件のうちの5件で、主に1964年、65年の資料、約1150項である。今回の公文書の公開は、植民地支配、戦争被害者らが韓日交渉関連文書の公開を求めた訴訟の判決で、ソウル行政裁判所が財産請求権関連文書の開示を命じたことを受けたものである。この公文書は韓日交渉の最終段階での韓国側の政策決定過程、交渉の進歩状況をある程度知ることができる新資料だという点で重要である。

(3)「조선은행을 비롯힌 민간인 보유 대일재산에 대한 보상조치에 관하여」(경제기획원 장관이 외무부 장관에게 보낸 전문、1964년 5월 8일)〈속개 제6차 한・일회담.청구권위원회 회의록 및 경제협력문제、1964〉723.1JA/762『韓国外交文書』(2005年1月17日公開分) 

(4)「민간인 보유 대일 재산청구권에 대한 보상 조치」(외무성 장관이 경제기획원 장관에게 보낸 전문、1964년 5월 8일)〈속개 제6차 한・일회담.청구권위원회 회의록 및 경제협력문제、1964〉723.1JA/762『韓国外交文書』(2005年1月17日公開分)

(5)「제7차  한일회담.청구권 및 경제협력위원회 제1차 회의 회의록」(1965년 4월 20일)〈제7차 한일회담 청구권관계 회의보고 및 훈련、1965.전2권(V.2 1965.4.3 가서명 이후의 청구권 및 경제협력위원회、1965.4−6)〉723.1JA/1468『韓国外交文書』(2005年1月17日公開分)で、日本側が交渉の最終段階でも個人請求権問題を封じ込めるために慎重かつ神経質になっていたことが読み取れる。

(6)この「合意議事録」2(g)は韓日交渉において韓国側から提出された「『韓国の対日請求権要綱』(いわゆる8項目)」を含む対日請求権が「すべて完全かつ最終的に消滅」し、「対日請求権に関してはいかなる主張もなしえなくなることが確認された」と明記している。(『時の法令(別冊)−日韓条約と国内法の解説−』、1966年3月、p.182)

(7)この法律は「協定」第2条第3項の「財産、権利及び利益に該当するもの」は、「昭和40年6月22日において消滅したものとする」ことを日本の国内法として規定した内容だった。(同前、p.201)

(8)日本側の個人請求権封じ込め政策や、法理論争と証拠論争の過程で関連資料を提示できなかった韓国側は、個人請求権問題に消極的な姿勢をとり、結局政治的に妥結する方法を検討せざるを得なくなった。この点について、第5次交渉の請求権小委員会代表の文哲淳は次のように回顧している。「どんな方法で何を基準に一人いくらと全額を出すのか、技術的にも不可能なことです。結局、一つ一つ技術的に積み上げて計算するのではなく政治的に妥協するしかないと考えていました。つまり、政治的な決断によって日本が韓国政府に相当な金額を払う方法で妥結したほうがいいというのが、韓国側がとった立場です。」(新延明 「条約締結に至る過程」『季刊青丘』16、1993年、p.41。また、NHK「NHKスペシャルー調査報告 アジアからの訴えー問われる日本の戦後処理」での証言より、1992年8月14日放送。)

(9)対日平和条約第4条では分離地域との財産、請求権問題について、以下のように規定している。

 (a)この条の(b)の規定を留保して、日本国及びその国民の財産で第二条に掲げる地域にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行っている当局及びそこの住民(法人を含む。)に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。第二条に掲げる地域にある連合国又はその国民の財産は、まだ返還されていない限り、施政を行っている当局が現状で返還しなければならない。(国民という語は、この条約で用いるときはいつでも、法人を含む。)

 (b)日本国は、第二条及び第三条に掲げる地域のいずれかにある合衆国軍政府により、又はその指令に従って行われた日本国及びその国民の財産の処理の効力を承認する。(外務省条約局、法務府法制意見局編『解説平和条約−付日米安全保障条約』、1951年、p.18〜19参照)

(10)請求権交渉は、東アジアの冷戦体制が強化された朝鮮戦争の最中に始まり、ベトナム戦争が本格化した時期に終わった。それゆえ請求権交渉は、東アジアの冷戦体制から大きな影響を受けざるを得なかったのである。その根底にはアメリカが、資本主義陣営の結束を強化するために日本を極東における反共の砦とする「地域統合」構想が横たわっている。その実例としてアメリカが韓日間の「請求権問題」に何度も介入してきたことが挙げられる。このように請求権問題の「経済協力方式」は冷戦の産物であった。

(11)第二の原因と関連するのであるが、1950年代と60年代の韓国の分断政権は、朝鮮民主主義人民共和国との正当性をめぐる体制間競争に勝利するために、急速な国家建設と経済発展を重視する分断ナショナリズムを強化し民主主義を抑圧した結果、植民地支配の清算という観点と個人の側面を後方に押しやってしまったのである。

(12)植民地支配に対する日本の「合法支配」論や、個人請求権を封じ込めるための官僚主義的努力(交渉、法的措置)は、植民地支配の清算や個人の側面を排除しようとした、戦後日本のナショナリズムの一表現であったといえる。

(13)対日平和条約では賠償、請求権の戦後処理について、日本と戦争状態にあった連合国との関係と、戦前、戦中は日本の統治下にあり、戦後日本より分離されたいわゆる分離地域との関係を明確に区別して規定している。前者は対日平和条約第14条(a)で、後者は同4条(a)で規定している。

(14)韓国はアメリカとイギリスの合意により日本との交戦国あるいは連合国の一員ではなかったとされて、対日平和条約の署名国から除外されてしまった。こうして韓国は対日平和条約第14条に基づく植民地支配、戦争被害に対する賠償または補償を要求する道を閉ざされてしまい、同条約4条に規定された「請求権」の解決というかたちで討議しなければならなかった。

(15)そもそも、この対日平和条約だけが植民地支配の清算を扱わなかったわけではない。実際にイギリスはインド植民地支配に対して、フランスはベトナム植民地支配に対して、アメリカはフィリピン植民地支配に対して、謝罪をして被害と損害の回復の方法を規定した条約を作成し締結するということはなかった。また、2001年8月から9月にかけて南アフリカで開かれた「人種差別反対世界会議」(ダーバン会議)では、9月8日に「政治宣言」が採決され、そこで初めて奴隷制と植民地支配に対して「心からの遺憾の意」が表明されたが、被害国が求めた「謝罪」と補償については何の言及もされなかった。(『朝日新聞』2001年9月11日、朝刊参照)このように人類はいまだに植民地主義を克服していないのである。

(16)1990年代以降戦後補償裁判が連続して起こった背景には「柳井答弁」の存在が大きい。これについては第2章で詳しく述べることにする。

第二章 日本政府の「個人請求権をも放棄」論について

 第一節 日本政府の「外交的保護権のみ放棄」論

 第一章で見てきたように「請求権放棄」論の問題の所在とは、請求権規定の曖昧さに起因する植民地支配の未清算にあることが確認された。そしてこのような過去の清算のあり方に対して、1990年代から現在まで多くの戦後補償裁判が提起されるに至ったのである。これに対し日本政府は、従来から請求権放棄条項で解決されたのは国家の権利であると主張してきた「外交的保護権のみ放棄」論から、今日では個人の権利まで放棄されたと主張する「個人請求権をも放棄」論を展開するようになった。

 そこで本章からは、上述した第一章での検討をもとに日本政府の「個人請求権をも放棄」論に焦点をあて、議論を展開していくことにする。

 では、現在主張されている「個人請求権をも放棄」論に入る前に、まず日本政府が1990年代まで一貫して主張した「外交的保護権のみ放棄」論について、述べる(1)。

 「外交的保護権のみ放棄」論が、日本政府の公式見解として公表されたのは、1991年(平成3年)8月27日の参議院予算委員会においての柳井俊二外務省条約局長の答弁だと、一般的には理解されている(2)。当時、柳井俊二外務省条約局長は「協定」について、「……これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます。」(3)(傍線は著者)、と答弁した。(以下この答弁を「柳井答弁」と呼称する)

 この「柳井答弁」を基に、その後の国会答弁(4)、委員会においても同様の趣旨がなされている(5)。さらに、1951年のサンフランシスコ平和会議の際に締結したオランダ・日本間の二国間協定(いわゆる「吉田、スティッケル書簡」)(6)や戦後補償裁判(7)でも同様の趣旨がなされていることが確認されている。以上より、この「外交的保護権のみ放棄」論は1990年代までの日本政府の一般見解として理解できるだろう(8)。

 第二節 「外交的保護権のみ放棄」論から「個人請求権をも放棄」論への転換

 1.日本政府が「外交的保護権のみ放棄」論を主張した理由

 第一節で上述したように、日本政府が戦後一貫して「外交的保護権のみ放棄」論の立場をはっきり表明したことがわかる(9)。では、日本政府は何故、「外交的保護権のみ放棄」論を主張したのであろうか。その理由は、対日平和条約第19条(a)項(10)や、第14条(a)項2(T)(11)によって自己の請求権、財産権を喪失させられた日本国民からの憲法29条に基づく補償請求訴訟に直面して、国家の補償義務を否定するための理論として採用したからである。このような訴訟上の政策に基づいて、日本政府は「外交的保護権のみ放棄」論を主張したのである。

 2.「柳井答弁」の波紋

 上述した理由に基づいて主張された「外交的保護権のみ放棄」論の確立で戦後補償裁判の決着はついたかのように思われたが、実は「柳井答弁」があった後、外国人被害者の中で大きな波紋が起こったのである。その原因となった理由として「柳井答弁」が以下のように理解できることが挙げられよう。その理解の第一に、大戦に起因する賠償、請求権問題は、対日平和条約及び二国間協定によって、日本と連合国、占領地域、旧植民地諸国の政府間レベルでは最終的に解決された。第二に、その結果として、関係各国は、自国民が被った戦争被害について、相手国に対して一般国際法上の外交的保護権に基づいて請求を行う権利を放棄した。第三に、以上の国際法上の賠償、請求権問題の処理は、戦争被害者が個人として自らの被害について賠償を求める請求権には何ら影響を与えるものではない(12)。つまりこのような「柳井答弁」の理解は、それまで個人の請求権もすべて対日平和条約や二国間協定で解決済みだといわれて諦めていた多くの外国人に、日本国の国内裁判所に訴訟を提起することが出来る理論的根拠を与えたのである。そしてこのことが、1990年代に外国人個人による戦後補償裁判が多発するようになった原因の一つをなしたのである(13)。

 3.「個人請求権をも放棄」論への転換

 日本政府は「外交的保護権のみ放棄」論をはっきりと述べた以上、今度は日本国民からではなく外国人からの訴訟があったからといって、今さらこの立場を翻すわけにはいかなくなった。しかし、1990年代を通じて外国人による多数の戦後補償裁判が日本の裁判所に提訴され、1990年代末から2001年になると部分的ながら国が敗訴する事件も生じてきた結果、日本政府は「請求権放棄」論の政策上の転換を模索しはじめた(14)。このような日本の戦後補償裁判のあり方に対して、一つの衝撃が海の向こうからやってきた。これが、2000年9月21日のカリフォルニア州北部地区米国連邦地裁の第二次世界大戦期強制労働対日本企業訴訟判決である。(以下、「ウォーカー判決」と呼ぶ)この判決以後、日本政府は状況を打開する論理として「個人請求権をも放棄」論を主張するようになったのである。

 第三節 「ウォーカー判決」の論理

 日本政府は従来から主張してきた「外交的保護権のみ放棄」論に対して、微妙な言い回しをしながら一定の転換を企図し、個人の請求権自体も放棄されたとする「ウォーカー判決」と実質上同一の効果が生じることを狙っているとみられる動きがあるので、「ウォーカー判決」の論理ついて考察しておくことにする。

1.判決要旨

 そもそも「ウォーカー判決」は、第二次大戦中にナチ・ドイツとその同盟国の企業によって強制労働させられた人々が損害賠償を請求できる期限を2010年末まで延長するヘイデン法に基づいて、三井物産、三菱商事、新日鉄などを相手取ってカリフォルニア州各地の州地裁(上位裁判所)に提訴されたものである(15)。しかし一連の訴訟の内容が対日平和条約に密接に関係することから、広域統一法廷審理前手続制度により裁判管轄権がサンフランシスコ連邦地裁のボーン・ウォーカー判事に渡り、一連の訴訟すべてを一括して審理することになったのである(16)。そしてアメリカ政府は法廷の友としての意見書(State-mennt of Interest)(17)において「サンフランシスコ平和条約で日本政府、国民に対する米国および米国民の請求権は完全に放棄しており、日本企業への損害賠償請求権に適法性はない」(18)という趣旨の見解を陳述した(19)。さらに注目すべきは「ウォーカー判決」で、日本政府は2000年8月8日にアメリカ政府に「日本政府は、第二次世界大戦中の日本国およびその国民の行動から生じた米国およびその国民(捕虜を含む)の日本国およびその国民に対する請求権は、平和条約によって解決されたとする米国政府の見解と完全に同意見である」と述べた外交覚書(以下、「ウォーカー判決に関する日本政府の外交覚書」と呼ぶ)(20)を手渡した(21)。こうして日本政府は「ウォーカー判決」を契機に突如としてアメリカ政府と同様の見解を表明し、国内と国外とで完全に理論を使い分けるかたちになった。

 「ウォーカー判決」の要点は以下の通りである。ウォーカー判事は、対日平和条約第14条(b)項の解釈を「……文面上、条約は『すべての』賠償、ならびに『戦争の遂行中に日本国およびその国民がとった行動から生じた』連合国『国民』の『すべての』『他の請求権』を放棄する。この放棄の表現はきわめて広く、かつ条約の他の条文に言及する冒頭の文節を除いて、条件的文言または制限を含んでない。……」(傍線は著者)とした(22)。つまりウォーカー判事は、連合国が日本国との対日平和条約第14条(b)項によって、連合国民が戦争中の日本国国民の行為に対して有し得るすべての請求権を放棄していることを理由に、原告の訴えを棄却したのである(23)。

 2.「ウォーカー判決」と日本の判決の違い

 「ウォーカー判決」と日本の外国人からの提訴による戦後補償裁判を比較してみると、際立った特徴が見られる。前者はすでに紹介したように、連合国民の日本及び日本国民に対する請求権はすべて対日平和条約第14条(b)項によって放棄されているとして、原告の理由を却下した。これに対して1990年代末の日本の裁判所は「外交的保護権のみ放棄」論を前提に「ウォーカー判決」のように対日平和条約による請求権放棄を理由に却下することをしないで、事実問題と法律問題の審理を行った上で(24)、第一に、日本の国内法に基づく請求については、その請求が国内法上成立しないか、成立するとしても時効あるいは除斥期間の経過によって消滅しているとして棄却するものと(25)、第二に、国際法を根拠とする請求については、個人は国際法上主体性を有しないから、直接戦争被害を加害国家に対して請求することができないとして棄却するものとのケースに特徴がみられる(26)。つまり、両判決の対日平和条約における請求権放棄条項の解釈が前者は請求権の完全放棄を意味し、後者は請求権のうち外交的保護権のみが放棄されたとする一部放棄を意味しているのである。すなわち同じ条約の請求権放棄条項の解釈が日本とアメリカとで異なるのである。この点が「ウォーカー判決」と日本の判決を比較してみて、検討すべきもっとも大きな問題であろう。

 第四節 日本政府の「個人請求権をも放棄」論の成立

 1.「オランダPOW控訴審の準備書面」(2001.2.27)

 日本政府は上述した「ウォーカー判決」の論理に「請求権放棄」論の転換の契機を見出した結果、「個人請求権をも放棄」論を主張するに至った。その「個人請求権をも放棄」論の理論的骨格となったのがオランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求事件(27)の控訴審(28)である。日本政府はオランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求事件の控訴審において、2001年2月27日付準備書面の「第3 サンフランシスコ平和条約14条及び19条(a)について」で、予備的主張として次のような主張を行った(29)。(以下、「オランダPOW控訴審での準備書面」と呼ぶ)

 「…平和条約14条(b)にいう『請求権の放棄』とは、日本国及び日本国民が連合国国民による国内法上の権利に基づく請求に応ずる法律上の義務が消滅したものとして、これを拒絶することができる旨が定められたものと解すべきである。」(30)(傍線は著者)

 つまり、日本政府は請求権放棄条項の新たな解釈を「外交的保護権のみ放棄」論の維持という段階と「ウォーカー判決」と同様の効果を有するという段階の二段階を経て試みたのである。その第一段階は、従来から対日平和条約及び二国間協定で放棄されたのは外交的保護権のみであって、個人請求権は消滅していないと主張する「外交的保護権のみ放棄」論との理論的整合性を保ち続けることである。そして第二段階は「ウォーカー判決に関する日本政府の外交覚書」での国家の権利と個人の請求権はすべて対日平和条約で解決したとの見解と矛盾しない理論、しかもそれは「ウォーカー判決」と同様の効果を有して係属中の戦後補償裁判で出始めた敗訴を食い止めることができるような理論を構築することである。このような二段階を経る過程で苦心して模索した結果、「オランダPOW控訴審での準備書面」において「個人請求権をも放棄」論の理論的骨格を形成したのである。

 2.「海老原答弁」の真意(2001.3.22)

 日本政府はこの「個人請求権をも放棄」論をより一層確固たる主張にしようと、国会答弁において理論的補強を施したのである。それが、2001年3月22日の参議院外交防衛委員会における海老原紳条約局長の答弁である(31)。(以下この答弁を「海老原答弁」と呼ぶ)

 海老原紳条約局長は請求権放棄条項の解釈について「国民の持っております請求権そのものが消滅したというようなことではございませんけれども、サンフランシスコ平和条約の結果、国民はこのような請求権につき満足を得ることができなくなる、すなわち権利はあるけども救済はないという考えで一貫しております。」(32)(傍線は著者)、と答弁したのである。

 結局、つまるところ「海老原答弁」は外交的保護権のみ放棄して個人の請求権は消滅していないけれども、しかしこの請求権は平和条約の結果満足を得ることはできなくなる、「救済なき権利」にすぎないとの主張なのである(33)。

 3.「オランダPOW控訴審判決」(2001.10.11)

 このような「オランダPOW控訴審の準備書面」での予備的主張や、「柳井答弁」での主張はオランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求事件控訴審判決(東京高裁2001年10月11日)でその理論構築を完成することになる。(以下、「オランダPOW控訴審判決」と呼ぶ)すなわち「オランダPOW控訴審判決」は次のようにいう。

 「…サンフランシスコ平和条約14条(b)の請求権放棄条項により、連合国及びその国民と日本国及びその国民との相互の請求権の問題は終局的に一切が解決されたものと認められる。すなわち、連合国国民の個人としての請求権も、連合国によって『放棄』され、これによって、連合国国民の実体的請求権も消滅したと解するのが相当である。…」(34)(傍線は著者)

 以上のごとく、日本政府は2001年2月27日に戦後補償裁判において初めて対日平和条約における請求権放棄条項を根拠に連合国国民個人の請求権を棄却すべしという主張を行い、判決も同年10月11日に初めて対日平和条約によって連合国国民の請求権が「放棄」され、国民の実体的請求権は消滅したと判示した。つまり、日本政府は戦後一貫して主張してきた「外交的保護権のみ放棄」論を微妙な言い回しをしながら一定の転換を企図し、個人の請求権自体も放棄されたとする「ウォーカー判決」と実質上同一の効果を生じさせたのである。その意味で「オランダPOW控訴審判決」は、戦後補償裁判史上きわめて重要な位置を占める判決で、「外交的保護権のみ放棄」論から「個人請求権をも放棄」論へ転換したターニング・ポイントでもある(35)。さらに「個人請求権をも放棄」論の法的メカニズムを追及してみると、「オランダPOW控訴審判決」でさらなる詭弁を行っていることが判明した。それは判決で「…連合国国民の個人としての請求権も、連合国によって『放棄』され、これによって、連合国国民の実体的請求権も消滅した…」(36)と放棄にカッコをつけ請求権に実体的と形容詞を付したのである。この放棄につけたカッコと実体的の意味するものは、実は「放棄」されないで残っているのは形式的請求権のことで、実体的請求権は「放棄」されて消滅しているので、訴訟は受理されるが必ず敗訴するという運命のもの、すなわち「救済なき権利」であるということが隠されているのである。

 以上の経過を経て日本政府の「個人請求権をも放棄」論は成立したのである。

(1)〜(36)までの説明

(1)「外交的保護権のみ放棄」論と「個人請求権をも放棄」論の名称については、山手治之著「日本の戦後処理条約における賠償、請求権放棄条項−戦後補償問題との関連においてー(一)」(『京都学園法学』、2001年(1)、通号35)を参考にして用いた。ただし国際法上、外交保護権の名称よりも外交的保護権の名称の方が一般的なので、本論文では「外交的保護権のみ放棄」論とする。

(2)「外交的保護権のみ放棄」論についての最初の国会答弁は、1991年(平成3年)3月26日の参議院内閣委員会において、高島有終外務大臣官房審議官が、日ソ共同宣言第6項について、「国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということ」と答弁したことである。(第120回国会参議院内閣委員会会議録、第3号、1991年3月26日、p.15)

(3)第121回国会参議院予算委員会会議録、第3号、1991年8月27日、p.12。

(4)柳井俊二外務省条約局長は第122回参議院予算委員会(1991年12月13日)、第123回衆議院予算委員会(1992年2月3日)、第123回衆議院外務委員会(1992年2月26日)、第123回衆議院予算委員会(1992年3月5日)、第123回衆議院予算委員会(1992年3月9日)でも「柳井答弁」と同趣旨のことを述べている。

(5)第122回参議院国際平和協力等に関する特別委員会(1991年12月13日)での矢田部理理事の発言、第123回衆議院予算委員会(1992年2月19日)での伊藤秀子理事の発言、第123回衆議院予算委員会(1992年3月21日)での清水澄子委員の発言、第123回衆議院法務委員会(1992年3月27日)、第123回参議院内閣委員会(1992年4月7日)、第123回参議院予算委員会(1992年4月8日)での清水澄子委員の発言、第126回参議院内閣委員会(1993年3月29日)、第126回衆議院予算委員会(1993年5月26日)での丹波外務省条約局長の答弁、第129回参議院内閣委員会(1994年3月25日)での竹内行夫外務大臣官房審議官の答弁、第129回参議院外務委員会(1994年6月22日)での清水澄子委員の発言、第140回衆議院予算委員会第一分科会(1997年3月4日)での東郷和彦外務大臣官房審議官の答弁、第147回参議院外務委員会(2000年3月14日)での福島瑞穂委員の発言等がある。

(6)この書簡の中で、オランダ政府は「……第14条(b)項の規定は、正しい解釈では、各連合国政府がその国民の私的請求権を、これらの請求権が条約の効力発生後は存在しなくなるように、収容することを含まないのであります。…」と述べ、それに対し日本政府は「……連合国民がそれらの請求権に関してはこの条約の下においては満足を得ることができなくなるものであること、ただし、オランダ政府が示唆されるとおり、日本国政府が自発的に処理することを欲するかもしれない連合国民のある種の私的請求権が存することを指摘します。…」と述べている。このような内容からすると、「吉田・スティッケル書簡」では外交的保護権の表現は用いられてないが、対日平和条約第14条(b)項の規定は個人請求権を収容して消滅させる意味を含まないとの趣旨が述べられていることがわかるだろう。これはまさしく「外交的保護権のみ放棄」論であり、この理論のルーツを「吉田・スティッケル書簡」に見出すことができよう。なお、この「吉田・スティッケル書簡」は日本では1998年6月13日に行われた第14回目の外交文書公開の際まで未公開であった。

(7)「戦後補償裁判」での「外交的保護権のみ放棄」論を主張した代表的な判決として原爆訴訟(東京地裁1963年12月7日判決)を挙げる。原爆訴訟で被告国は以下のように主張している。

 「…(一)国家が個人の国際法上の賠償請求権を基礎として外国と交渉するのは国家の権利であり、この権利を国家が外国との合意に放棄できることは疑いないが、個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、国家の権利とは異なるから、国家が外国との条約によってどういう約束をしようと、それによって直接これに影響は及ばない。

 (二)従って対日平和条約第19条(a)にいう「日本国民の権利」は、国民自身の請求権を基礎とする日本国の賠償請求権、すなわちいわゆる外交的保護権のみを指すものと解すべきである。…」(『判例時報』、355号、p.23〜24)

 この他にも同様の判示を行ったものとしては、平和条約請求権放棄賠償請求訴訟第二審(東京高裁1959年4月8日判決)、カナダ在外資産補償請求訴訟(最高裁1968年11月27日判決)、シベリア抑留訴訟(最高裁第一小法廷1997年3月13日判決)がある。

(8)なお「韓国」政府も同時期に「外交的保護権のみ放棄」論を主張している。例えば、国会本会議(1991年10月11日)での李相玉外務部長官の答弁、国会統一外務委員会(1995年9月20日)での孔魯明外務長官の発言、国会統一外務委員会(1998年1月26日)での柳宗夏外務部長官の発言、2000年10月25日に李延彬外交通商部長官の金元雄国会議員の質疑に対する書面答弁書等がある。

(9)日本政府の「外交的保護権のみ放棄」論は諸外国では全く見られない、国際的に通用しない議論なのである。この日本政府及び裁判所の「外交的保護権のみ放棄」論を従来から批判したのは広瀬善男である。この議論については広瀬善男『捕虜の国際法上の地位』(1990年、日本評論社)、広瀬善男「戦争損害に関する国際法上の個人請求権」(『明治学院論叢』、第646号、『法学研究』、第69号)に詳しく述べられている。

(10)対日平和条約第19条(a)項は以下のように規定する。

 「日本国は、戦争から生じ、または戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、且つ、この条約の条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する。」

(11)対日平和条約第14条(a)項2(T)は以下のように規定する。

 「次の(U)の規定を留保して、各連合国は、次の掲げるもののすべての財産、権利及び利益でこの条約の最初の効力発生のときにその管轄の下のあるものを差し押さえ、留置し、清算し、その他何らかの方法で処分する権利を有する。

 (a)日本国及び日本国民
 (b)日本国又は日本国民の代理者又は代行者
並びに
 (c)日本国又は日本国民が所有し、又は支配した団体

 この(T)に明記する財産、権利及び利益は、現に封鎖され、若しくは所属を変じており、又は連合国の敵産管理局の占有若しくは管理に係るもので、これらの資産が当該当局の官吏の下におかれた時に前記の(a)、(b)又は(c)に掲げるいずれかの人又は団体に属し、又はこれらのために保有され、若しくは管理されていたものを含む。」

(12)中山淳司「戦後補償訴訟と国際法−司法を通じた戦後補償の可能性と限界−」(『法学教室』、2000年7月号)p.43参照。

(13)例えば、不二越挺進隊員等賃金等請求訴訟第一審判決は、「平成3年8月27日に日本国政府の右見解(「柳井答弁」を指す)が表明されるまでは、原告らの個人的事情を越え、かつ原告らの関与可能性のない客観的、一般的状況により、原告らが本件賃金債権を行使することは現実に期待しえない状態にあり、右の政府見解(「柳井答弁」を指す)の表明された時をもって、右権利行使が現実に期待できることになったものというべきである」として、同事件の賃金債権の消滅時効の起算日を、「柳井答弁」の翌日すなわち平成3年8月28日と判示した。(富山地裁平成8年7月24日判決、『判例タイムズ』、941号、p.197〜198。

(14)例えば、関釜元慰安婦訴訟(山口地裁下関支部1998年4月27日)、劉連仁事件(東京地裁2001年7月12日)、浮島丸訴訟(京都地裁2001年8月23日)がある。

(15)ヘイデン法の正式名称はカリフォルニア州戦時強制労働補償請求時効延長法である。このヘイデン法は19997年7月米国カリフォルニア州において、第二次大戦中ナチス・ドイツ、日本、イタリアなどの企業で奴隷労働、強制労働に従事させられた民間人、捕虜およびその相続人が州上位裁判所に補償請求訴訟を提起できること、その補償請求訴訟には2010年12月31日までは消滅時効の規定を適用しないことなどを定めたものである。なおヘイデン法の解説と日本語訳については、戸塚悦郎「戦後補償問題に踏み込む米国−カリフォルニア州で戦時奴隷、強制労働補償請求の民事消滅時効延長立法」(『法学セミナー』、1999年10月号、p.73)に詳しく書かれている。

(16)広域統一法廷審理前手続制度の正式名称はmultidistrict litigation制度である。これはアメリカの連邦の立法によって1968年に設けられたものである。この制度は、少なくとも一つの(通例は複雑な)事実問題を共通にする複数の民事訴訟が、いくつかの裁判区(district)にわたって連邦地方裁判所に係属するときに、それらの訴訟を一つの裁判所に集めて、一人の裁判官の指揮のもとに統一的な正式事実審理前手続(pretrial proceeding)を行うという制度である。航空機事故、製造物責任、特許権、商標権侵害、独占禁止法、証券取引所法違反など、同一事件からいくつもの民事訴訟が各地で起こされることの多い事件の処理に当たって、開示手続(discovery)の重複により裁判所間で矛盾した決定が生じることを避け、当事者、証人の負担を軽減し、迅速かつ効率的な司法の運営を図ることを目的としたものである。

(17)アメリカ政府の法廷の友としての意見書は公開されておらず、新聞記事等による間接的資料によってしか紹介されていないので、山手治之「日本の戦後処理条約における賠償、請求権放棄条項−戦後補償問題との関連においてー(一)」(『京都学園法学』、2001年(1)、通号35、p.80)を参考にした。

(18)『産経新聞』2000年6月29日、朝刊。

(19)アメリカ国務省も「対日賠償請求はサンフランシスコ平和条約で解決済み」との見解を示し、連邦地裁に提出した。(岩下慶一「戦争の悪夢に悩む日本企業−強制労働の補償を求める人々」『AERA』、2000年9月25日、p.29)

(20)さらに覚書は「第二次世界大戦中に日本国民がとった行動に対して米国内裁判所でさらなる補償を求めようとする最近の動きは、平和条約の文言と精神に反し、必然的にわれわれ両国間の双務的(bilateral)関係を傷つけるものである」と述べている。(山手治之「日本の戦後処理条約における賠償、請求権放棄条項−戦後補償問題との関連においてー(一)」(『京都学園法学』、2001年(1)、通号35、p.41)

(21)日本政府のこのような意見はすでに1999年11月9日に柳井俊二駐米大使が、「日本国・国民の行為と、連合国・国民の行為にかかる請求権の問題は、サン・フランシスコ平和条約第14条、19条で相互に放棄することが明確にされている。これを基に新しい国際関係が築かれたのだから、いまさらそういうことを言われても困る」とアメリカ国内の訴訟には法的根拠がないことを強調しつつ述べている。(『産経新聞』1999年11月10日、朝刊)さらに彼は2000年6月27日にも請求権問題はサンフランシスコ平和条約で決着済との政府見解を改めて強調し、「50年前の話を蒸し返せば、せっかく発展してきた日米関係に影をさしかねない」と懸念を表明した。その上で、「いろいろな機会にわれわれの考えを説明している」「必要な情報は日本企業に提供する」と、日本企業の法廷闘争を側面から支援する考えを明らかにした。(『朝日新聞』2000年6月28日、夕刊)

(22)原文は以下の通りである。「On its face, the treaty waives "all" reparations and "other claims" of the "nationals" of allied powers "arising out of any actions taken by Japan and its nationals during the course of the prosecution of the war." The language of this waiver is strikingly broad, and contains no conditional language or limitations, save for the opening clause referring to the provisions of the treaty.」(In re World WarUEra Japanese Forced Labor Litigation, 114F.Supp.2d 939(ND.Cal.2000)
p.9。)なお、日本語訳は山手治之「第二次大戦時の強制労働に対する米国における対日企業訴訟について」(『京都学園法学』2000年、第2.3号、通巻第33.34号)p.77を参考にした。

(23)なお、裁判所は条約の文言から以上は明白であって、条約の起草過程や締結の際の事情などに依拠する必要はないと考えるが、念のためそれらの分析もし、また行政部門の意見も参照して、それらすべてが自己の条約解決と一致するとしている。

(24)実質的な事実審理をしないものとして、花岡事件第一審判決(東京地裁1997年12月10日)のように例外的もある。

(25)強制連行、強制労働に関する対企業訴訟の場合が典型的であるが、例外的に関釜元慰安婦訴訟第一審判決(山口地裁下関支部1998年4月27日)のように国内法上違法行為の成立を認めたものもある。

(26)主に連合国捕虜の日本国に対する訴訟が典型的で、ハーグ陸戦条約第3条は被害者個人に直接加害国に請求し得る権利を与えたものではないと判事している。

(27)オランダ元捕虜、民間抑留者損害賠償請求事件第一審判決(東京地裁1998年11月30日)『判例時報』、1685号、p.3、『判例タイムズ』、991号、p.262、『訟務月報』、46巻2号、p.774。

(28)2001年10月11日に、第二次大戦中にインドネシア(旧オランダ領東インド)を占領した旧日本軍の捕虜や抑留者になったオランダ人計8人(うち二人が死亡)が収容中に虐待を受けたなどとして、国を相手に一人二万二千ドルの損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決。浅生重機裁判長は原告の請求を退けた一審判決を支持、原告の控訴を棄却した。なお詳しくは『判例時報』、1769号、『判例タイムズ』、1072号、『訟務月報』、48巻9号を参照。

(29)オランダおよびイギリス、アメリカ、そのほかオーストラリア、ニュージーランドも含んでPOWと言い、元捕虜と民間抑留者の二つの訴訟がある。オランダは独立して訴訟を行っているので、オランダの元捕虜および民間抑留者の訴訟を「オランダPOW」訴訟とする。

(30)「オランダPOW」訴訟控訴審で2001年2月27日に日本国が東京高裁に提出した準備書面p.18より。なお、『判例時報』、1769号、p.65、『判例タイムズ』、1072号、p.92、『訟務月報』、48巻9号、p.59を参照。

(31)この「海老原答弁」は、「オランダPOW控訴審の準備書面」での新たな主張に従来の「外交的保護権のみ放棄」論とは異なると感じた控訴人らが、2001年4月5日付「求釈明」を行ったところ、被控訴人の日本国は2001年4月20日付「釈明」において、「従来の立場を変更するものではない」と釈明したことに対する補充説明でもあるので、「個人請求権をも放棄」論の完成には不可欠なものである。

(32)同上p.15。

(33)第155回参議院内閣委員会会議録。第3号、2002年11月12日、での林景一外務省条約局長も同様の趣旨を述べている。

(34)『判例時報』、1769号、p.73、『判例タイムズ』、1072号、p.100、『訟務月報』、48巻9号、p.78より。

(35)以後の判決でもこのような言い回しは見られる。例えば、2003年9月19日の「第206号損害賠償請求控訴事件第12準備書面」のなかでは、「「請求権」については、日韓請求権協定2条3において、一律に「いかなる主張もすることができないものとする」とされており、同協定2条1において、「請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなる。」ことが確認されている。…「請求権」について、いかなる主張もすることができず、完全かつ最終的に解決したとは、韓国及びその国民が、どのような根拠に基づいて日本国及びその国民に請求しようとも、日本国及びその国民はこれに応じる法的義務はないという意味である。…したがって、韓国国民がこの「請求権」に基づいて、我が国に請求をしたとしても、我が国はそれに応じる法的義務がないこととなる」と主張している。

(36)『判例時報』、1769号、p.73、『判例タイムズ』、1072号、p.100、『訟務月報』、48巻9号、p.78。

−終章−

 これまで「請求権放棄」論の問題の所在を提示し、日本政府の「個人請求権をも放棄」論の成立過程を整理してきた。以上に挙げてきた分析を総合すると、日本政府が主張する「個人請求権をも放棄」論とは、外国人からの戦後補償裁判に対して、「外交的保護権のみ放棄」論のように国家の請求権と個人の請求権とはそれぞれ別個のものであるとの前提に立ちながら、残っている個人請求権を実質的に否定するために対日平和条約ですべての請求権は消滅したとの「ウォーカー判決」の理論を用いて、外交的保護権は消滅して残っている個人請求権が実は無意味な権利にすぎないとし、最終的には外交的保護権と個人請求権のすべての請求権は放棄されたと主張したものであることが判明されたであろう。このように日本政府の「個人請求権をも放棄」論での対日平和条約の請求権放棄条項の解釈は、外交的保護権のみを放棄したことを意味する一部放棄の解釈から個人請求権をも放棄したことを意味する完全放棄の解釈へとなったのである。つまり、日本政府の「個人請求権をも放棄」論の本質とは、日本の植民地支配の清算を志向するものではなく、そのことによって植民地の事実すらも隠蔽しているという非清算性が全章を通じて明らかとなった。ここで貫かれている立場は、「強者の法」の論理に基づいていることである(1)。この「強者の法」の論理とは、「法の前における全ての市民の平等」なる法諺の下に植民地保有国と被植民地国の実質的平等を固定するものであり、植民地保有国のいわゆる「正義」と「自由」を保護するものである。そして、形式的平等を法的平等と構成することにより、現実に存在する実質的不平等を構成外とし事実をおしかくそうとする法の「忘却」の機能にある(2)。このように日本政府の「請求権放棄」論には、「強者の法」の論理が横たわっているのである。

 ここで紙数の関係上、深まった議論を展開することはできないが、日本政府の「請求権放棄」論の問題性を指摘しつつ、朝日国交正常化交渉への提言として二、三のことに触れて本論文をしめたいくくりと思う。

 朝日国交正常化に注目するのは以下の理由からである。第一に、1991年から始まった朝日会談は、世界の外交史上初めて、過去の植民地国と宗主国が被害者と加害者という立場から植民地責任を中心問題として取り扱った極めてまれなケースであり(3)、その世界史的意義は決して小さくない(4)。第二に、朝日正常化交渉は日本政府が最後に残した戦後処理条約であり、朝鮮民族に対して日本政府が自らの植民地支配の責任を認め、謝罪を表明する最後の機会を提供するものである。すなわち、朝日国交正常化交渉のあり方が朝日間のみならず、植民地支配、戦争の損害と被害を受けたすべての国家、国民に対する植民地支配未清算の歴史に終止符をうてる最後の砦なのである。このような重要性を念頭にいれた場合、朝日国交正常化交渉を経て、将来結ばれる朝日条約は、韓日条約のような政治的妥結で解決するのではなく、「協定」では排除された個人請求権を規定し、植民地支配の清算に基づく賠償(もしくは補償)とその実現を規定した請求権条項を規定することが望ましい。事実、ピョンヤン宣言第2項での植民地支配の清算方式(5)は、植民地主義の清算と被害者への補償実現への方向性を持つものであり(6)、植民地主義の清算や個人補償の実現を排除した「韓日」協定第2条とは植民地支配の清算方式を異にする(7)。一方、日本政府は「請求権放棄」論のようなその場しのぎの詭弁を用いずに、誠実に朝日国交正常化交渉に向き合い、植民地支配に対する謝罪と賠償をすべきであろう。このような視点を持って、今後の朝日国交正常化交渉での請求権問題が論議されることを期待しながら、本論文を終える。

(1)〜(7)までの説明

(1)ここで「強者の法」の論理が強調されているが、近代国際法は「強者の法」と「正義の法」との両側面を持っていたのである。「正義の法」の側面には、「陸戦ノ法規慣例二関スル条約」の前文(マルテンス条項)や「国家代表に対する強制は無効」とされた慣習法などがある。この点につき、康成銀は「帝国主義時代の国際法(慣習国際法)はヨーロッパの利害関係を代弁する「狼の法」としての側面と人権と平和を念願する人類の志向を反映した「羊の法」という側面を同時に持っている。国際法は大国の侵略の法的道具として利用されたが、同時に大国の行動を拘束し批判する根拠にもなった。」(康成銀、『一九〇五年韓国保護条約と植民地支配責任−歴史学と国際法学との対話−』、創史社、2005年、p.318。)

(2)この法の「忘却」の機能についてベルンハルト・シュリンクは次のように述べている。「法には、想起することと忘却することの両者が内在している。法は、行為者が自分の犯した罪に捉えられ、自分の罪の責任を負うことを要求する。…同時に、過去のことはピリオドを打って片付けるべきことも要求する。」(ベルンハルト・シュリンク著『過去の責任と現在の法』、岩波書店、2005年、p.81。)

(3)朝鮮民主主義人民共和国政府の対日国交正常化のアプローチは1955年2月25日、南日外相の声明で日本との関係正常化の意志を公式に表明したことに始まる。

(4)康成銀、『一九〇五年韓国保護条約と植民地支配責任−歴史学と国際法学との対話−』、創史社、2005年、p.6〜7参照。

(5)ピョンヤン宣言第2条は植民地支配の清算方式について以下のように規定している。

 「日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。

 双方は、日本側が朝鮮民主主義人民共和国側に対して、国交正常化の後、双方が適切と考える期間にわたり、無償資金協力、低金利の長期借款供与及び国際機関を通じた人道主義的支援等の経済協力を実施し、また、民間経済活動を支援する見地から国際協力銀行等による融資、信用供与等が実施されることが、この宣言の精神に合致するとの基本認識の下、国交正常化交渉において、経済協力の具体的な規模と内容を誠実に協議することとした。

 双方は、国交正常化を実現するにあたっては、1945年8月15日以前に生じた事由に基づく両国及びその国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄するとの基本原則に従い、国交正常化においてこれを具体的に協議することとした。

 双方は、在日朝鮮人の地位に関する問題及び文化財の問題については、国交正常化交渉において誠実に協議することとした。」

(6)ここで補償に付点したのは、ピョンヤン宣言で用いられた補償という用語は過去清算の意味を含むニュアンスであるが、しかし本来なら賠償という用語を用いらねばならなかったであろう。そういう意味でピョンヤン宣言での補償という用法は、一種の後退と思える。

(7)しかし、このような清算方式を規定したピョンヤン宣言でも、損害と被害の真相を究明し、その真相究明に基づいた植民地支配、戦争による被害の清算は十分にはなされていないのが現状である。

△参考文献

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[朝鮮新報 2005.12.27]