故朴武鎬氏を偲んで ウリハッキョをこよなく愛して |
今年の秋も西大阪朝鮮初級学校の校舎の前には、ぶどうがたわわに実り、囲りの畑にはプッコチュが赤い実をつけている。すると、今は亡き朴武鎬氏の声が聞こえてくるのである。
「お〜い、子供たち、ブトウがよくできたから家へ持って帰れよ!」「オモニたち、プッコチュがいっぱいあるからバザーに使えや!」と。どれも朴武鎬氏が一生懸命世話をして育てたものだ。私の居住する総聯大阪住吉支部の副委員長であり、西大阪初級学校のバスの運転手もしていた朴武鎬氏が大腸ガンにより去年、61歳という若さで亡くなって、早や一周忌を迎えようとしている。 故朴武鎬氏は、和歌山の自然の中で生まれ育ち、こよなく山や川、酒を愛し、その中で得た豊富な経験や知識には、ただただ感心させられるばかりだった。私たちには山菜取りの名人であり、子供たちにとっては生きた知識を身をもって教えてくれる先生だった。故人は、自分自身が日本学校出身だったので、ウリハッキョや子供たちに対する思いはひとしおだったという。通学バスの中では、騒いでる子供にはたまにはげんこつが飛び、ある時にはにぎやかな歌声が響く。先生たちには辛口の叱咤も飛ぶ。しかしそこには、学校や子供たちに対する愛情があふれていた。
支部ではいつも春の山菜取りや、秋の登山の運転手役で、ちょうど去年の秋もすすきを見に和歌山県の生石高原に行った。その2カ月後に亡くなるとは露にも思わず、一緒に楽しく秋を満喫し、そして来年もまた必ず来ようと約束した。 しかし今年は朴武鎬氏の姿がないまま再び住吉支部で生石高原を訪れた。去年の約束どおりに。 するとまた故人の声が聞こえてくるのである。「オモニたち! 来るの遅かったな。ずっと山で待ってたぞ!」と。故人がいない山菜取りは、どれが芹で、どれが蕗かわからず大騒ぎだ。金剛山に登った時は、トド(朝鮮つる人参)を見つけ、故人と一緒に登山どころかトド掘りに夢中になったのも懐かしい思い出だ。 学校の木の剪定も、朴武鎬氏の役目だった。学校の囲りの畑にはトマトや野菜が常に育っていた。機械に囲まれた殺伐とした今の社会の中で、故人は私たちや子供たちに自然と共にあることの大切さを、そこで得た感動が生きる力になることを教えてくれた。大きな肩書きや勲章はなくとも、朴武鎬氏のような、心から学校や子供を愛した人たちがいたから、今ウリハッキョが守られているのだと、故人を偲びながらあらためて思うのである。(尹美生、女性同盟大阪住吉支部) [朝鮮新報 2005.11.27] |