〈投稿〉 無罪証明の供述否定に憤り−康元局長の裁判を傍聴して |
10月6日、東京高等裁判所にて総聯中央の康永官元財政局長に対して控訴棄却の判決が言い渡された。 第1審の有罪判決を全面的に支持する内容である。 当日、法廷で判決を聞きながら、捜査段階で作成された事件関係者の虚偽調書のみを正当化し、康元局長の無罪を証明する公判での供述をことごとく否定する裁判長に憤りを禁じえなかった。 筆者は第1審の段階から公判を傍聴してきたが、法廷で証言した事件関係者たちは、弁護側証人のみならず検察側証人でさえ、康元局長が今回の事件とはかかわりがないことを証言した。 にもかかわらず、第1審は公判での証言を退け懲役6年という不当判決であった。 捜査段階で作成された検察側の調書は、具体的で詳細、かつ体験した者にしか語れない内容と認められるので信用するに値し、公判での証言には不一致などがあるので信用できない、というのがその理由だった。 密室で何十日も閉じ込められた状況下で、検事の誘導のもとに作成された調書は、事実とは異なっていても、確かにつじつまがあっており文章もよくできている。 文章の作成が下手な者が検事になれるわけがないのである。 反対に、公判での証言は検事などの反対尋問もあり、まちがった証言をしたり、緊張のあまり理路整然とした証言ができない場合も多々ある。 まちがった考えかもしれないが、このような判断が刑事事件で続くなら裁判などやらず、検察側の調書のみで判決を下せばいいのではないかとまで思った。 公開裁判の否定に 第2審の判決も1審同様、公判での証言を信用できないとして退けた。 それどころか、総聯の関係者が傍聴席に大勢いたので、証人たちが康元局長に不利な発言をできなかったとまでつけ加えた。 傍聴席には、筆者が察するかぎり、公安関係者や捜査当局関係者もいたはずだ。そのことは証言に何ら関わりはないのか。 公判というものは誰もが傍聴でき、一般的に被告人関係者、原告人関係者が傍聴するものだ。 関係者がいるから、その者たちに不利な発言は信用できないとするなら、公開裁判自体がなりたたなくなる。 いったい、裁判官は自分の述べていることが公開裁判の否定につながるということを認識しているのだろうか。 初めに「有罪ありき」 2審ではまた、康元局長を除いては、弁護側が請求した証人尋問をすべて不許可にした。 ひとつも物的証拠がないにもかかわらず、本人以外誰の供述もできなかったのである。 はじめから「有罪ありき」で、検察側の調書をいかに正当化するかが裁判官の主な関心事であったとしか言いようがない。 康元局長が不当逮捕されてからすでに4年が経とうとしている。 病気治療のため入院中に逮捕、起訴された康元局長はこの間、まともな治療も受けられずに拘置所生活を送っている。2004年10月には東京弁護士会が「康永官氏を、速やかに、外部病院(これまで治療してきた駿河台日本大学病院が適当)に移送し、専門的診察、治療を受けさせる」ことを、法務大臣、法務省矯正局長、東京拘置所長に警告している。 またこの間、弁護団は21回にもわたって保釈請求をしているが、高裁はことごとく不許可の決定を下してきた(地裁は9回保釈決定を出している)。 人権侵害もはなはだしい、許しがたい行いである。 弁護団は判決当日に上告したという。 筆者は、事実は必ず勝利するという確信を抱きながら、康元局長の無罪判決獲得のため、自分ができるかぎりのことをやっていきたい。(李泰一、朝鮮大学校職員) [朝鮮新報 2005.10.14] |