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留学同京都主催「アウシュビッツ・ポーランド研修旅行」 参加学生の感想文

▽加害国と被害国の関係知る旅(朴利明、京大1回生)

政治犯として囚われていた、反ナチ地下組織に通じていた2人のポーランド人が1944年9月4日に撮影したもの。焼却しきれない大量の遺体を野焼きにしている様子が写っている

 私が今回この研修旅行に参加しようと思った動機は、大きく分けて3つある。

 1つは、戦後補償の観点からドイツは日本のモデルとされてきたが、加害国であるドイツと被害国であるポーランドの関係が現在どのような局面にあるのかを現地を訪れて知りたいと思ったこと。

 2つ目に、ナチス・ドイツ期におけるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)という個人の想像力を超えるこの残虐行為がどのような社会背景の中で可能となったのか、そしてその因子は現代われわれが生きる社会とはまったく無縁なものなのか、つまりこの残虐行為が今後繰り返される恐れは果たしてないのかを探りたかったからだ。

 そして最後に、社会主義体制が崩壊し、資本主義体制に移行した東欧諸国の現状をその国の風景、建物や人々などを通じて感じ取れるのではないかという好奇心からだった。

 ドイツの戦後補償の観点から今回の旅で感じたことを簡単にまとめると、戦争の傷跡は今も残っているし、これからも残り続けるだろうが、だからこそ同じ傷を負わないように、またその傷の痛みを和らげていくために積極的に傷を直視し癒しているということだった。

 ドイツでは自国民、他国民含めて戦争被害者に対して個人補償を行っている。そして同じ悲劇を繰り返すまいと自らの犯した罪を教育の場においても積極的に見つめようとしている。教育の面で特筆に価することはドイツ・ポーランド両国の人間が歴史教科書改善のために協力し合っている点であろう。

 日本の姿勢を同じように簡単にまとめるならば、「臭いものに蓋をする」という表現が良く当てはまる。他国民に対する戦争被害者への個人補償はおろか、自国民に対しても軍人、軍属に限定され民間にはなされていない。教育の現場では日本の大戦時における蛮行に関する記述は「自虐史観」として量と質の両面においてあまりに不十分のままで留まっている。

 これだけ見ると確かにドイツは日本のモデルにふさわしく、戦争責任は完全に果たしているように聞こえるかもしれないが、ドイツ・ポーランド間の葛藤がまったく解消されたわけではない。

 まず現在の両国間の関係は基本的に友好関係を築けているということだが、これも戦後すぐに実現されたものではないという。66年のドイツ司教による謝罪や70年代に西ドイツ首相ブラントが慰霊碑の前にひざまずき、口を添えるという深い謝罪をなしたこと、このようなドイツ(ここでは西ドイツ)の姿勢があったからこそポーランド人も許そうという気持ちになれた、と地元のガイドは語ってくれた。

 一度でも誠実な謝罪を行ったか否かという事実の重さを否定できないと同時に、友好関係を築くためには継続して反省、認識差異を縮めるための対話を続けていくことが必要不可欠であるとあらためて感じた。一度起きてしまったことは無かったことにはできない。苦しんだ人々の記憶も消せない。責任を取るとは何かをチャラにしたふりをすることではない。チャラにはできないから、誠意をもってその傷が少しでも癒えるように支援を続け、同じ傷を負わないように過去の過ちを忘れず教訓として学び続けるのだと思う。

今後も伝えていく

 今後もホロコーストのような残虐行為が起こりうるだろうか。

 現在の日本を見てみると、ニュース、新聞では来日外国人の犯罪増加をひんぱんに取り上げ国民の不安を煽っている。

 その結果、例えば中国からの日本への留学希望者で認可がおりなかった人の数は急増しているという。単純労働でのビザを認めず、結果として不法労働者の数を増やし、彼らは劣悪な状況の中で雇用されている。

 ちなみに来日外国人の検挙数は、日本人による犯罪のそれよりも大分厳しくカウントされるばかりか、不法滞在、オーバーステイも犯罪に含まれるため、数だけだと誇大になる。それを考慮しなくとも、(外国人犯罪が)急増したというのはまやかしにすぎない。それでもいまや、多くの人々は日本にいる外国人に対して不信感を募らせている。

 この構造はユダヤ人の排斥のそれと大変似ている。実際にはこのようなことは古今東西問わず多くあるのだろう。だからこそ第2のホロコーストが起きるかどうか予測がつかない。

 今回の旅で感じたことを今後も伝えていきたい。歴史を通して自分が生きている今に対して自覚的になることで、加害の歴史を繰り返してはならない。

▽独と日本 過去に対する姿勢の違い(徐麻弥、広島市大3年生)

被植民者の共通点

第2収容所の線路。線路の終わる左右、その奥にガス室はある。現在は「ナチス政権下犠牲者国際記念碑」がその終点にある

 ポーランドでは一番にワルシャワを訪れた。ポーランドは朝鮮同様、長い間侵略され、植民地にされた歴史があり、街のいたるところでその傷跡が見られた。

 旧市街地で、ボロボロに破壊された終戦直後の写真と今のワルシャワを見比べながら、普通なら途方に暮れてしまいそうな状況で、見事に復興させた街並を見ながら、ポーランド人、朝鮮人という、被植民者の共通点を感じた。それはつまり、「奪われた」ものを「取り戻す」力のようなものだ。「苦難の行軍」を乗り越えた朝鮮人民と通じるものを、ワルシャワで感じた。

 それと同時に、戦後からの道のりの違いをより強く感じた。

 それは、ドイツと日本の、過去の克服、戦後補償に対する対処や姿勢の違いだ。ドイツとポーランドは過去のことでナーバスになることもまだあるが、今良好な関係を築こうとしている。それはドイツがきちんと事実を認め謝罪し、補償するとともに、それをきちんと伝えていくことで克服していこうとする姿勢があるからだ。

 一方日本はどうか。いまだに植民地時代にしてきたことを認めようとしないばかりか、教科書からその歴史を削除しようとする動きがある。今や日本の若い世代の多くは過去の事実をきちんと理解することなく、その民族的歴史経験を自己と結びつけることなく水に流そうとしている。

 しかし、私たちのガイドをしてくださった中谷さんは、日本人として今の日本の状況に非常に強い憤りを感じ、アウシュビッツという場所で間接的に、日本人に対し日本人の責任を問いかけていた。

引き返せなかった人

 アウシュビッツを訪れて、少し驚いたのだが、あまり大きなインパクトを受けなかった。昨年夏に朝鮮の信川博物館(※注−朝鮮戦争時に行われた米軍の民間人への蛮行を展示)を訪れた時のように痛みを感じると思っていたが、実際はあまり感じなかった。

 それは、ポプラの木などがきれいに並び、あまり視覚的に訴えるものがなかったからかもしれない。なぜそのような木を植える心を持つ人間があのような卑劣な行為を行うにいたったのか。なぜ、視覚的に訴えるものをおいていないのか、あるいは残っていないのか。まだまだ歴史にはできない人々がいるということだ。これは朝鮮人であっても同じことだ。まだ歴史にしてはいけないし、清算ができていない今、歴史にすることはできない。被害者やその遺族がいるうちに、早急に解決していかなければと、アウシュビッツ訪問を通じてあらためて感じた。

 ガス室、収容所に向かう線路を引き返しながら、引き返すことのできなかった多くの人たちに思いを馳せた。その人たちが受けてきたことを忘れぬよう、そして日本と朝鮮の過去も必ず解決されるように、何ができるのかを問いかけた。

 ポーランドで感じた思いや問題を日本に持ち帰り、日本の地で留学同活動を通じて働きかけていきたい。

[朝鮮新報 2005.3.12]