〈ざいにち発コリアン社会〉 修斗環太平洋ウェルター級王者 朴光哲選手 同胞に勇気与える試合を |
総合格闘技・プロ修斗の初代環太平洋ウェルター級王者決定トーナメントの決勝戦(1月29日、東京・後楽園ホール)で見事勝利し、初代チャンピオンの座を手にした朴光哲選手(PUREBRED東京/KILLER BEE)。相手が同級世界3位の選手だっただけに、世界のベルトも見えてきた。総合格闘技にいち早く着目し、強さを追求してきた朴選手。「同胞たちに勇気を与えられる試合を続けていきたい」と語る。 「これだ!」と直感
群馬朝鮮初中級学校、茨城朝鮮初中高級学校出身の朴選手。幼い頃はサッカーに励んでいたが、格闘技にもずっと興味を持っていた。高3からは、サッカー部に所属しながらボクシングを始め、朝鮮大学校ではボクシング部に所属した。朝大師範教育学部体育科(当時)を98年に卒業したあとは、働きながら週に一度ジムに通った。 だが、「本当にやりたいこと、自分にできることをみつけられなかった」と語る。 そんな「モラトリアムな状態」を脱してのめりこんだのが総合格闘技だった。そして、99年から本格的に総合格闘技の道に入った。以後、アマチュアの試合に何度か出場しているうちに、「毎日練習すればものになる」と手ごたえを感じた。 「打・投・極」−打撃、投げ技、寝技すべてOKの究極のぶつかり合い、最先端のルールを用いた総合格闘技の元祖、修斗(別項参照)を目の当たりにし「これだ!」と直感したという。
連敗後に4連勝
当時、圧倒的な強さと絶大な人気を誇る「修斗のカリスマ」、佐藤ルミナ選手にあこがれ、彼が所属するジム、K'z FACTORYの門をくぐった。 はじめは「練習でボコボコにされた」そうだが、アマ修斗全日本大会で優勝するなどの実績を積み上げ、2001年にプロデビューを果たした。 デビュー戦では「全体的なバランスがよく、技術もしっかりしている」という関係者の前評判どおり、タックルからの関節技で一本勝ち。続く2、3戦目も勝利し、順風満帆のプロ生活を送るかに思えた。 しかし、03年2月、6月の試合に連敗した。「もうあとがない…」。連敗という屈辱がプロ意識を目覚めさせた。 一見、華やかに見えるプロの世界だが、その活躍の陰には他人の何十倍もの努力がある。朴選手にとっては何よりも、やっとみつけた「自分のステージ」という意地があった。 「いけるところまで、自分の力の限界まで突っ走ろう」 それまで以上に練習に打ち込んだ朴選手は、同年9月の試合で見事TKO勝利を収め復活。「この時期がターニングポイントだった」と本人も語る。 04年には、修斗やK−1で活躍する山本KID徳郁選手が所属するPUREBRED東京(KILLER BEE)に移籍。対戦相手が打ち合いを拒むほどの強力な打撃を武器に、初代環太平洋ウェルター級王者決定トーナメントを制し、チャンピオンに輝いた。 KOで決める選手に 「鋭い打撃、巧みな寝技、折れない気持ちを併せ持つ」と評されるほど、実力は折り紙付きだ。 朴選手は「一本やKOで決められる選手になりたい。見ている人が楽しめる試合をしたい」とさらなる極みを目指す。 また、「朝鮮人としての誇りを持って生きていきたい」と何のためらいもなく語る朴選手。「同胞の活躍を見るとうれしくなるもの。大きいことは言えないが、自分の試合を見て、一人でも多くの人が勇気づいて『おれもがんばろう』って思ってくれるとうれしい」と語る。 そんな強くてたくましい姿に同胞はもちろん、日本人のファンも着実に増えている。 「ぜひ試合を見に来てください」。1対1の戦いの場では声援が直接、力になる。「必ずいい試合をお見せします」。本人は謙遜気味だが、実力に裏づけされた自信が伺えた。(李泰鎬記者) 【修斗】初代タイガーマスクとして圧倒的な人気を誇った佐山聡氏が、「打・投・極」の理論をもって創始した、打撃、投げ技、寝技が有効な総合格闘技団体。1985年に設立。89年からプロ興行を開始。攻撃の制限が少なく、オープンフィンガーグローブの着用、階級制の導入など現在主流となっているルールをいち早く取り入れた、日本の総合格闘技における草分け的存在で人気が高い。 [朝鮮新報 2005.2.26] |