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殺し、焼き、奪った記憶と共に−東京大空襲59年

 大江戸線の開通ですっかり様変わりした江東区森下、菊川町界隈。深川丼や団子屋が軒を連ねる。小さな商店街を抜けると町工場もあって下町らしい活気に溢れる。

 その風景にまじって小さな墓標や石碑、地蔵があちこちにひっそりと立つ。この辺りは59年前の3月10日、東京大空襲の被災の中心地だったところ。焼夷弾の集中豪雨の下、わずか2時間で阿鼻叫喚の地獄と化した。東京全体の4分の1が焼失、焼け出された人100万、死者10万。犠牲者の3分の1が江東区の人々だった。

 東京大空襲の語り部橋本代志子さん(83)も本所区亀沢で被災、メリヤス工場を営む両親と妹を一瞬のうちに失った。

 「背中におぶっていた一つの息子が『ギャー』と異常な泣き声をたてた。振り向くと火の粉が口の中に! 喉を塞ぎ、真っ赤に燃えていました。あわてて火を指でかきだし、胸に抱き締めた」

 あの日母の背におわれていた息子が家業の町工場を切り盛りしている。6人の孫も成長した。その幸せな暮らしの中でいつも思うのは無惨な死を遂げていった無数の人々のことだ。

 戦後もずっと気にかけていたのが、洲崎にあった石川島造船所の寮で被災した朝鮮人労働者のこと。「寮には逃げ出さないように外から頑丈な鍵がかけられていたと聞いた。ほとんどの人が生きながら焼き殺された」。

 戦後十分な調査も供養もせず、その上に建物が建てられた。「あの時代にどんなに日本が他民族を苦しめ、殺し、焼き、奪ったかをしっかり記憶しなければ」。過去を忘却しようとする動きは許されない。(粉)

[朝鮮新報 2004.3.29]