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〈訪朝記〉 平壌での原爆被害者調査と平安北道龍川郡病院を訪ねて

龍川中学校の子どもたちと(後列左から3人目が筆者)

 市民団体「北朝鮮人道支援の会・広島」(代表=友国義信氏)の訪朝団に参加して8月18日から4日間、朝鮮を訪問した。僧職の友国氏、もと地元新聞の解説委員をしていた海老根氏が事務局長、医師の私、在日本朝鮮人被爆者連絡協議会の責任者である李実根氏がガイド役で、他に友国団長の友人2人、計6人の同行者であった。

 02年12月、南朝鮮在住被爆者に対する被爆者援護法の適応が確定した。「被爆者はどこにいても被爆者」という在外被爆者を代表する郭貴勲さんの訴えが実ったものである。以後、南朝鮮、ブラジル、米国在住の原爆被爆者に一定の支援が実施されてきている。

 在外被爆者の健康、生活、社会的差別などの重複した困難が戦後半世紀を過ぎてようやく明らかになり、少しずつ修復され始めた。一人、朝鮮の原爆被害者が置き去りにされていることに、広島の医師として心を痛めていた。

 そして今回、李実根さんの誘いで朝鮮の被爆者の実情を知りたいと訪朝した。さらに今年4月、龍川で起きた列車爆発事故による被災者救済の方途を探りたいのが2番目の目的であった。

風情ある柳並木

 平壌市街は道幅に比べ、人も車も閑散としている。

 空港から市内に入ってくる道路でも、悠然と牛が車を引いて横切った。当然であろうが、私たちの運転手もゆっくりと通り過ぎるのを待つ。

 市内に入る前に向こうからトラックが来た。荷台には人が鈴なりになっている。私たちが空港に着いたのは午後5時過ぎだった。仕事を終えた労働者であろうか。

 道路は広いが自家用車はほとんど走っていない。人はみな当然のように歩いている。歩いている姿に不自然さはまったくなく、自転車さえ多くはないようだ。

 普通のバスに混じって2階建てバスも走っていて、トロリーバスもある。バス停留所には仕事帰りか、人があふれている。もちろん路面電車もある。

 私たちの乗ったマイクロバスの前を子ども連れの婦人が横断する。子どもが一人で横断することもある。3車線、4車線道路である。横断しかけて、途中で子どもと一緒に引き返す婦人もいる。危ない。車自体は多くないが、バスなどの公共の乗り物は結構走っているのだ。しかし、運転手も日常のような顔をしている。

 日本の車社会に慣れている私には、異世界の感じがした。主要な十字路には、白い制服を着た若い女性の整理員(交通巡査さんと言うべきか)がいて、手際よく交通整理をしていたが、信号は多くはない。

 道幅は広く、街路樹も整然としている。主要道路に沿って高層ビルが建ち並んでおり、人民広場や人民芸術院、会議場など一国の首都としての風格は立派である。

 どこであったか、柳並木が続いていて、「柳並木というのも風情があるね」と海老根さんに話していると、案内の対外文化連絡協会(対文協)の呉さんが、「平壌は昔、柳の都と言われていました」と説明してくれた。

 大同江に沿って南下し、中洲・羊角島に建てられた「羊角島ホテル」に着いた。チェックインを済ませて7時からの歓迎晩餐会に臨んだ。

 ホテルで開かれた晩餐会場では、対文協の黄虎男局長が迎えてくれた。小泉首相と金正日国防委員長との2回の会談の同時通訳を務めた日本通という。

 黄虎男氏の祖父は、植民地時代に強制連行されて北海道の炭鉱で亡くなったという。互いに日本帝国主義時代の痛みと記憶を引きずりながらも、一人ひとりの友情あふれた晩餐会となった。

医療センター建設を

 私は翌日に予定されている、在朝鮮被爆者たちの被爆以後の日々を聞きとることの時間の短さをひどく気にしていた。昼食後は龍川へ出発しなければならない。対文協のバスで5〜6時間、悪路だという。私と海老根さんは、平壌市内の見学(私にとっては初めての都)はキャンセルして、被爆者との面接に時間をとってもらうことにした。

 朝鮮は完全な社会主義体制になっていて、基本的には衣食住すべてが国によって保障されている。もちろん教育、医療も同じで、医療費の個人負担はまったくない。この点では、私が知る在外被爆者が医療費の負担に悩まされていたこととは基本的に違う。

 1992年、李実根さんの働きかけで始まった原爆被爆者の登録は1953人で、生存者は928人という。広島市尾長町で被爆した卞今竜さん(72)と、長崎市卸船倉町で被爆した朴文淑さん(62)の話を聞いた。ともに1960年に帰国した。

 2人の惨憺たる被爆の実相を語る紙数を持たないが、卞今竜さんは家の下敷きになって気を失い、腰骨をはさまれ亀裂骨折を起こし、回復まで大いに苦しんだ。とくに最近、年齢とともに腰の傷が痛んで足が広がってきているという。

 朴文淑さんは不整脈、高血圧、胃弱などに悩まされているという。医療費の直接的な負担がないとはいえ、医薬品も十分ではなく、原爆被爆の特殊性についての健康管理が十分であるとはとても言えない。

 その点では、「もっといい医療が受けたい」という被爆者の痛烈な願いがある。2人は、「私たちが広島や長崎に住んでいたのは日本の植民地政策によるものだ。その意味でも国家補償による被爆者援護を求める」と口を揃えながら、例えば被爆者医療センターのような施設を平壌に作ってほしいと要望していた。

 「私たちにはもう時間があまり残されていない」という被爆者の声に日本政府も真剣に向き合う責任があると感じた。

中国からの支援物資

 少年時、「鴨緑江」という言葉は、国境の大河というイメージだった。河を越えた向こうに、当時「満州」(現在の中国東北部)と呼ばれる広大な土地が広がっていた。さらにそれを越えると蒙古があり、ゴビの砂漠が少年の夢をかきたててくれた。

 平壌から北へ、1時間あまりで途中の高速道を降りると、田園の中、未舗装の道になる。遠くの山すそに点在する農家や、山肌の木々が日本の原風景に似てる。

 区画された田園の中、働いている牛もいれば、のんびり草を食んでいる牛もいる。幾匹かのヤギが水路沿いの土手で遊んでいるのが、風景を豊かにしてくれる。李実根さんは、「5年前に比べると、山に緑が多くなった」という。

 どこへ行くのであろうか、人々は黙々と道を歩いている。自転車もあり、牛車もある。行きかう自動車は多くないが、私たち8人を乗せたマイクロバスは、労働者満載のトラックを追い越し、また、自家用車に追い越されながら、北へ北へと走る。時に南下するトラックと行きかう。「中国からの支援物資です」と呉さんが言う。

 道を北上するにつれて、10〜20アールの正方形に整備された田園がはるかに広がっており、遠くの山影が見えないほどである。いつぞや医学会で新潟に行った時の車中で、山影のはるかに遠い越後平野の稲田を見た時の感慨がよみがえった。

 龍川を過ぎると新義州である。「鴨緑江ホテル」で7時に夕食をしながら打ち合わせをし、5時間もバスに揺られた汗を流そうと浴槽に浸かっていると、呉さんが「夜中に水が出なくなることがあるので、風呂の湯を抜かないでください」という。夜中は一定時間停電で、国のエネルギー事情の深刻さを再度確認した。

痛み分け合う精神

郡病院の副院長に医薬品を手渡す

 翌朝、対文協の李河進氏の出迎えで、新義州から爆破事故のあった龍川まで引き返し1時間後、龍川郡病院に到着した。院長室でまず、人民委員会の張松根委員長から事故の状況説明があった。

 同席した副院長の趙容鎬先生に持参した医薬品(ペニシリン1万錠)を手渡し、現在も入院している10人の学童を見舞った。

 全員が眼科の患者で、眼球を失った子が4人、水晶体混濁、あるいは水晶体自体がなくなっている子などは失明状態であった。病室に案内された時、全員が黒い遮光眼鏡をかけてベッドにいる姿には思わず足がすくんだ。いつの場合でも被害を受けるのは子どもである。ヒロシマを知る医師として痛恨の思いがした。

 爆破事故の現場には水がたまっていて、そのすぐ側に小学校と2つの専門学校があったという。今はもう4階建てのアパート群が建ち並び、順次被災家族の入居が始まるという。

 仮設住宅をまったく見なかったが、被災家族は、被害を受けなかった家で同居しているという。「私の家にも一家族一緒にいます」と人民委員長が言う。

 社会が受けた痛みを協同して分担し支えあうという精神が生きていると思った。阪神大震災後の仮設住宅は、体のいい隔離、差別の発想ではなかったのか。「自分たちのいつもの生活は乱されたくない」という…。当地では、被災者たちの自殺や孤独死などという言葉はあるまい。「協同と共生」の理念を垣間見た思いであった。

 インフラ整備は急ピッチで進められているようだが、それにしても私は郡病院の子どもたちの、光を失った寂しそうな姿が忘れられない。(御庄博美)

[朝鮮新報 2004.11.5]