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〈インタビュー〉 「南北コリアと日本のともだち展」担う、寺西澄子さん

 アジア、中東、アフリカの9カ国で国際協力活動を懸命に展開しているNGO・日本国際ボランティアセンター(JVC)の活動の一環として、人道支援「南北コリアと日本のともだち展」に取り組んできた寺西澄子さん(27)が先月、5回目の訪朝をし、子どもたちと温かく交流をした。この人道支援を担い、緊張する日朝関係の狭間で、さまざまな苦難を乗り越えて、両国の子どもたちの懸け橋として、平和への歯車を進めてきた寺西さんに話を聞いた。

ボランティアから

JVCの寺西澄子さん

 寺西さんは学生時代に初めてNGOのボランティアとして、フィリピンの貧しい農村に足を踏み入れた。98年には交換留学生として、ソウルに1年間滞在。その縁で南の多くのNGOの人たちの知己を得た。

 00年3月に卒業した後、東京で開かれた朝鮮の人道支援に関する国際NGO会議を手伝った。それ以来、朝鮮への人道支援活動に加わり、朝鮮半島との地道だが、確かな関係を一歩ずつ築いてきた。

 しかし、寺西さんが直面したのは、98年の「テポドン」騒動、02年の拉致事件を巡る日本列島を包む北叩きのエキセントリックな雰囲気。「『食糧難の人々に食べ物を届ける』という至極単純なことが、日朝間の状況によってことさら厳しい目を向けられ、非難されるようになった」。

日本から運ばれてきた絵を熱心に見入る平壌陵羅小学校の子どもたち

 敗戦後半世紀以上経ても、国交がない日朝間の諸問題。過去の未清算、歴史的、文化的な相違からくる誤解と偏見。近年の反北感情。若い寺西さんは戸惑うことばかりであった。米国で起きた9.11についてはその悲劇に同情を寄せても、自分たちの隣国でのできごとには、無視し、否定的なメディアと一般の人たち。

 そこで、寺西さんたちは「KOREAこどもキャンペーン」を通じて、子どもたちの人道支援に取り組むかたわら、子どもたちの絵画の交換をすることで、支援する側、される側という構図にとらわれることのない、風通しのよい関係を築こうとしたのだ。

 98年に始まったこのキャンペーンで日本で初めて北の子どもたちの写真、絵画展が行われた。これが後の「南北コリアと日本の友だち展」へと発展していくことになるが、そこに至る道のりは、決して平坦なものではなかった。

「隣の国と仲良く」

平壌のチャンギョン小学校での出迎え

 「初めて北に行って、小学校や幼稚園に『子どもたちの絵をもらいたい』と申し出た時、相手の反応は『何のために子供の絵を持ち帰るのか』『日本でいったいどのように利用するのか』という非常に懐疑的なものだったという。そこを何とか説得して持ち帰った絵だったのに、それを見た日本側の率直な印象は『上手すぎる。本当に、小学生の描いた絵なのか』『なぜ、こんな似通った絵が多いのか』というものだった。同じモチーフからのものが幾枚もあり、日本で好まれそうな『のびのびと描かれた』『子どもらしい感性にあふれた』絵とは言えそうになかった」

 しかし、この第一印象から学んだ点は大きかったという。「日本側の受けた印象そのものが日本で暮らしてきた者の価値観に縛られて判断したことによって生まれたものであって、この価値観の違いをどうやって受け入れて乗り越えるのかという点を、真摯に考えるまたとないきっかけとなった」と中西さん。

 しかも、このような感想はあくまでも大人の視点からのものであって、子どもたちは朝鮮の子どもの絵を素直に褒めた。「とっても上手だね」「何だかちょっと寂しい絵だな」「これ、日本とおんなじだ。日本にもある」−。

陵羅小学校を訪れた一行

 そして、日本の子どもたちに「この絵を描いた子どもたちがいる北朝鮮と日本とは、国と国の関係がないから、簡単に会うことはできないんだよ」と話すと子どもたちから的確な反応が返ってきた。

 「どうして隣の国と仲良くできないんだろう。いつも大人は友だちと仲良くしろというのに」

 全く偏見のない力強い励ましに時としてハッとさせられることがある、と寺西さんは微笑む。日朝の厚い政治の壁や普通の人たちの北との交流への嫌悪感に直面して落ち込んだりした時に「平和のために何をすべきか」というもっとも根源的な問いに気づかされた言葉だった。

 「ともだち展」も回を重ね、今では全国から募集して集まる絵は初年度の数倍にも増えた。地方での展示も京都、大阪、名古屋、兵庫、新潟にまで広がって、メッセージもたくさん届けられる。それだけでなく、これらの絵は平壌やソウルにも渡り、絵画展は大きく成長していった。また、実際に子どもたちが行き来するようになった。南の子どもたちが日本へ。在日コリアンや日本の子どもたちが南へ。「北への人道支援の際、本当に届くのか、としばしば論じられる。しかし、『ともだち展』を通じて、私たちは何度も平壌の小学校や幼稚園を訪れて子どもたちに直接手渡し、実に嬉しそうな子どもたちの笑顔に接することができた」。

 こんな交流を通じて、今、寺西さんは少しずつ時代が「平和」へと向かっていることを肌で感じているという。7年前、亡くなる直前父は南の留学に旅立つ娘に「自分の選んだ道だからきちんとやり遂げなさい。そして、朝鮮半島にまっすぐに向き合っていきなさい」と励ましてくれたという。父の書架には徐兄弟の母呉己順さんの生涯を描いた「朝を見ることなく」をはじめたくさんの朝鮮関連の書物が残されていた。

 有形無形の「父の宝物」を心に刻んで、東アジアの共生と平和に取り組みたいと語った。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.9.29]