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ジェノサイド研究の展開公開シンポジウム「関東大震災から81年−朝鮮人、中国人虐殺を再考する」、東大で開催

公開シンポ「関東大震災から81年−朝鮮人、中国人虐殺を再考する」の模様

 「ジェノサイド研究の展開」公開シンポジウム「関東大震災から81年−朝鮮人、中国人虐殺を再考する」が、5日、東京大学駒場キャンパス学際交流ホールで開かれ、約140人が参加した。同シンポを主催したのは、日本学術振興会「人文、社会科学振興のためのプロジェクト研究事業」。シンポでは山田昭次・立教大学名誉教授が「震災直後の首都圏で何が起きたのか? 国家、メディア、民衆」と題する基調報告を行った。

 山田昭次氏は震災時の朝鮮人虐殺事件に関わる諸問題について、@二重の国家責任A民衆責任B新聞の責任について論じながら、「日本の国家が虐殺した朝鮮人の遺体を隠し、朝鮮人に頑として引き渡さなかった」ことに触れ、「虐殺されたうえに遺体さえも取り戻せない一朝鮮人遺族の悲しみと怒りを報じた当時の新聞記事があるが、こうした思いを抱いた朝鮮人遺族は何万人といたことだろう。しかし、そうした思いは弾圧によって闇の中に81年も葬られてきた」と力説した。

 そして@二重の国家責任について、震災時に朝鮮人が暴動を起こしたという誤認情報を流して朝鮮人虐殺を引き起こした第1の国家責任と、その責任を認めず、その責任の隠ぺいをあらゆる手段を使って行った第2の国家責任を指摘した。

 また、23年12月15日、衆院本会議で永井柳太郎が内務省警保局長の電文や埼玉県内務部長の指令など、官憲が朝鮮人暴動のデマを流した証拠をつきつけて政府に謝罪を迫ったが、首相山本権兵衛は、「政府は起こりました事柄に就いて目下取調進行中でござります」とごまかし答弁をして、永井の質問をはぐらかしたと指摘。「実際は虐殺の国家責任を隠ぺいする政策はそれまでにほぼ実行し終わっていた」と述べ、以来、日本政府は山本内閣の政策を踏襲し、在日朝鮮人から人権救済申し立てを受けた日本弁護士連合会は、03年8月25日、小泉首相に対してこの事件に関する謝罪の勧告書を出したが、首相からの回答はいまだにないと批判した。

 つづいてA民衆責任について、戦前、日本人が作った朝鮮人被虐殺者の墓碑が8つあるが、いずれも「鮮人之碑」(埼玉県本庄)とか、「法界無縁塔」(千葉県・船橋仏教連合会建立)とか、あるいは「鮮覚悟道信士」(埼玉県児玉町淨眼寺」と戒名を書くだけで日本人が殺したことを記した碑文が全くないと指摘した。また、戦後の碑文にも「こうしたことは繰り返してはならない」という反省が書かれるようになるが、日本人が殺したことを記した碑文はいまだに一つもないと語った。

 そして「日本の民衆が朝鮮人虐殺の自己責任をあいまいにしていたのでは、日本国家が虐殺責任を認めて謝罪するはずもない。日本民衆は朝鮮人虐殺に加担した原因を自ら解明し、反省すると同時に、国家責任を解明することがその責任である」と断じた。

 さらにB新聞の責任について、報知新聞が報道を通じ官憲が流言を流したことを報じ続けたと評価、しかも、最底辺の被害者である朝鮮人に目を向け「流言の火元は官憲だと証拠だてる事はいくらでもあるが、お役人で責を負ったものは一人もいない。結局永遠の暗に葬られじまいである」(24年8月29日付夕刊)と慨嘆したと指摘した。

 しかし、新聞は全般的にこの事件以前から朝鮮人の解放、独立運動に偏見をもたせる報道しかしなかったし、事件当時も政府の政策に追随するだけだったと糾弾した。そして、一連の拉致事件報道などについて触れ、「朝鮮民主主義人民共和国に向けられた批判の厳しさは、同時に日本国家の朝鮮人虐殺に向けなければならない。真相を隠ぺいし、事実を抹殺し、謝罪もしない日本のありようは、南北朝鮮や在日の朝鮮民衆の共感を得ることはできない」と述べた。

 つづいて笠原十九司・都留文科大学教授が「東アジア近代史における虐殺の諸相」について、芝健介・東京女子大学教授が「水晶の夜とナチ・ジェノサイド」について各々報告を行った。

 笠原氏は、明治維新の際に行われた戊辰戦争での「官軍」による会津若松の虐殺と、アジア侵略戦争での「天皇の軍隊」の残忍さの共通点に触れながら、「皇軍の名誉を失墜させる言論、報道、行為は許されないという絶対的タブーに規定されて、日本軍の戦争犯罪の事実は隠ぺいされ、記憶されず、また、記憶させまいという強力な忘却の圧力が加えられてきた」と指摘した。

 つづいて総合討論「学際的アプローチ」では、高橋哲哉・東大教授、黒住真・東大教授、申惠丰・青山学院大学助教授、佐藤達哉・立命館大学助教授らが意見を述べた。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.9.8]