「朝鮮文化」訪ね29年、50回 市民とともに歩んだ歴史家、上田正昭、京大名誉教授 |
京都の市民団体「日朝友好促進京都婦人会議」が1975年から催してきた「朝鮮文化をたずねる会」が5月16日、50回を迎えた。発足当初から朝鮮の古代文化への関心が高まるように精力的に取り組んできた歴史家の上田正昭・京都大学名誉教授を講師に迎え、朝鮮文化の影響が色濃く残る日本各地の遺跡や社寺などを訪ねてきた。4月に喜寿を迎えた上田さんが講師を務める最後の記念ツアー。大雨の中、朝・日市民110余人が参加して、新羅からの渡来系氏族・秦氏ゆかりの京都市西京区の松尾大社などを巡ったあと、京大会館で上田さんの講演を聞いた。 「たずねる会」は毎年1、2回のペースで「旅」を実施。副葬品や壁画に高句麗文化の影響が指摘される奈良県の藤ノ木古墳や福岡県の竹原古墳、四隅突出型古墳で知られる福井県清水町の小羽山30号墳、江戸時代の朝鮮通信史の関係資料が残る栃木県の日光東照宮など、九州から関東、北陸までの各地を巡った。 上田さんは、鋭い人権感覚から在日朝鮮人や被差別部落の問題に積極的にかかわり、その問題意識から、従来の学説を総合する独自の方法で研究を大成した。古代朝鮮、南島文化、神祇と道教、日本神話、部落史、芸能史などの多大の業績の中に、朝鮮を正当に評価したいという史眼が貫く。 「渡来の文化は認めるが、渡来の集団とその役割を認めないという風潮はいまなお存在する。そうした見方が誤っていることは、その後の研究成果からも正されてきた。人間不在の文化論によっては、古代日本の歴史と文化を正当に評価できるはずがない」
50回の旅の思い出を上田さんは、「最初は古代のロマンを求めて参加する人も多かったが、実際に遺跡を歩き、史実に触れるなかで、自らの問題として日朝関係を考える人が増えた」と感慨深げに振り返った。 「まわりを海で囲まれている弧状の日本列島は、文字通りの『島国』である。『島国』なるがゆえに、とかく日本列島の歴史と文化は、この列島内部のみで形作られたかに考えられやすい」と指摘したうえで、古代日本の基層文化の形成に海上の道を媒体とした海外の人々との触れ合いがあったことを強調する。 「日本民族を単一民族とみなす素朴な受けとめ方は、いまもなお日本の政治家、官僚のみならず、多くの人々の中に根強く生き残っているが、そうした曲解は、1910年代から日本の学界の中で提起され続けてきた。複合民族説にかんする研究史をかえりみない俗説であり、実証的な歴史学や考古学、人類学などの研究成果を無視した、歪められた見方や考え方であるといわざるをえない」 2001年、平成天皇の桓武天皇と朝鮮の深い結びつきをめぐる発言は大きな反響を呼んだ。桓武天皇の生母は高野新笠。百済の武寧王の子孫であると「続日本記」に記述されている。しかし、上田さんが65年に著書でその史実に触れた時は、「近く天誅を加える」だの、「国賊上田は京大を去れ」だのという物騒な手紙や嫌がらせ電話に悩まされた。 上田さんが日朝問題を論じる時に、つねに指摘してやまないのが、第8次、第9次の朝鮮通信使の渉外担当(真文役)であった雨森芳洲(1668〜1755年)の思想と実践だった。 対馬藩儒でもあり、優れた思想家、教育者でもあった雨森芳洲は、その著書「交隣提醒」でも「誠信と申し候は実意と申す事にて、互いに欺かず争はず、真実を以て交り候」と説いた。上田さんは「誠信」の至言は、近、現代における日本と朝鮮の歪みを照射してやまない、と力説する 東アジアの中の日本の有様を思索し、実践した雨森芳洲は、朝鮮語、中国語にも精通。「鎖国」の時代に、釜山にわたって朝鮮の政治、経済、文化などを実地に学んで、それを生活と外交に体現した。そして、秀吉の朝鮮侵略を「無名之師」と論破した。上田さんは、この雨森芳洲魂こそいまによみがえらせるべきだと語った。 この日、記念レセプションで乾杯の音頭をとった京都女性同盟の魚秀玉委員長は「日朝間の鋭い対立、敵対の時代にも、『民際』の言葉を打ち出して民衆同士の交流を説き、朝鮮民族の平和統一と朝・日国交正常化に惜しみない支援を寄せてこられた上田さんに心から感謝する」と述べた。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2004.6.8] |