日本の核問題の真相(3) |
日本軍部当局の核武装化企図はさらに野心的である。 すでに1955年から10余年間、陸上自衛隊幹部学校では具体的な核攻撃を想定した図上演習を中心とする核戦争教育が繰り広げられたという(東京新聞93年3月21日付)。 59年、自衛隊の統合幕僚会議事務局が作成した「第2回防衛力整備計画に対する軍事的要請」という文書には、「…軍事的に見ると、核戦争に対処する能力はもちろん、防御用兵器を中核とする戦術核兵器程度の使用能力は保有すべきである」と叙述されている(日本の図書「ここまできた日本の核武装」75年版)。 自衛隊が63年にわが国を仮想の「敵」と設定し、米国と協同作戦を行うことを予見した「三矢作戦」計画は、「基礎研究第4」という条項で日本の核兵器保有を前提として核兵器をいかに使用すべきかを取り扱った(同上書)。 毎日新聞94年8月2日付は、69年から2年半の間、海上幕僚長を務めた内田一臣が幕僚長時代に「核兵器が必要」だと考えて検討した事実を伝え、これによって核兵器について「制服組が検討を推し進めていた実態が明らかにされた」と暴いた。 上記の事実のように、日本反動層はすでに50余年前から核武装をあらかじめ既成の事実にして密かに核戦争を準備してきた。 かつて、日本で次々と明るみに出た核物質隠匿事件は「核盗人」としての日本反動層の汚い正体を暴露する今一つの核秘話である。 93年1月に茨城県の東海村にあるプルトニウム燃料製造工場で原爆1発分のプルトニウムが記録から消えた事実が明るみに出て一大騒動が起こった(毎日新聞93年1月23日付)。 その余波が鎮まる前の翌年5月9日、やはりこの工場で原爆9発分に相当する約70キロのプルトニウムを隠していた事実が発覚して世論の焦点となった。 後に判明したところによると、このプルトニウムは工場生産ラインの煙突と設備に付着している状態で巧妙に隠されていたが、国際原子力機関(IAEA)の査察員も毎月査察を行ったというものの、そのような「秘密の場所」にプルトニウムが隠されていたのを発見できなかったという(ロシアのイタル・タス通信94年5月10日)。 これに関連して当時、日本のジャパン・タイムズ紙は、米国の民間団体である核統制研究所の秘密報告書によって日本のプルトニウム隠匿事実が知られなかったなら、IAEAは核爆弾に装てんする秘密核物質が日本に準備されていたことを知らなかったはずであると指摘し、日本経済新聞はすでに蓄積されたプルトニウムをそのような方法で隠していなかったのかを調査するよう主張する専門家たちの文を載せた。日本反動層がこのように「核盗み」もためらわずになったのは、早急に核兵器を手に入れようとする欲望がもはやとどめようのない段階に至ったからであり、その欲望が度数を越え、分別を失ったからである。 日本の核秘話は、日本の領域を越えて国際舞台にまで汚い行跡を残した。 日本政府は、60年代前半期までは国連総会で核兵器使用の禁止、核兵器撤廃に関する決議案に仕方なく賛成したが、60年代後半期からは反対、または棄権する立場に立った。 日本政府は、67年の第22回国連総会、72年の第27回国連総会、76年の第31回国連総会、77年の第32回国連総会、78年の第33回国連総会、79年の第34回国連総会、80年の第35回国連総会での核兵器禁止条約の検討に関する決議案、核兵器の永遠な禁止に関する決議案、核を持たない国の安全保障に関する決議案、すべての核兵器の爆発実験禁止に関する決議案の票決で棄権し、核兵器の配備禁止に関する決議案と核兵器使用禁止に関する決議案票決の際に反対した(創82年3月号)。 これに続いて日本政府は、82年の第37回国連総会、85年の第40回国連総会、86年の第41回国連総会、87年の第42回国連総会、88年の第43回国連総会、89年の第44回国連総会、90年の第45回国連総会、92年の第47回国連総会ですべての核兵器の使用禁止に関する決議案、核兵器不使用および核戦争防止に関する決議案、核兵器のない国の領土に核兵器を配備するのを禁止することに関する決議案、核兵器使用および使用の脅威に対処した非核保有国の安全強化に関する決議案、核兵器凍結に関する決議案、核戦争防止に関する決議案、南アフリカの核能力に関する決議案、イスラエルの核武装化に関する決議案などの票決の際、反対、または棄権した(国連総会決議集93年版)。 日本政府は反対または棄権した理由として、「核兵器の使用を一切禁止するのは核抑止力と両立しない」「核の均衡を破壊しかねない」などのあいまいで、途方もない主張を持ち出したが、実際、その裏には今後、核兵器を保有し、使用するという下心があるというのは疑う余地もない。 日本のこのような卑劣な行為はその後も続いた。 94年、国際司法裁判所が核戦争が国際法の違反になるのかについての意見を提出するよう世界各国に要請したが、日本政府は「核兵器使用が国際法上、必ずしも違法だとは言えない」という内容の意見陳述書を提出することにした。これが直ちに内外の強い反発にぶつかるや、日本政府はやむをえず該当の部分を削除せざるをえなかった(朝日新聞94年6月7日付)。 しかし、日本政府はこれに対して当然、反省をする代わりに「核兵器の使用は国際法の違反だとは言えない」という立場をあくまで崩さなかったし、翌年の95年11月7日、国際司法裁判所でのある会議で以前と同じ秘話を残した。 会議で外務省軍備管理、科学審議官の河村武和は、核兵器使用が国際法に違反するという見解を明白にするのを避けて「人間の精神に反する」というあいまいな表現を使った。さらに、この会議で原爆の被害を受けた広島と長崎の両市長が、核戦争は国際法に違反すると強く糾弾したことに対し、外務省の報道官は国際司法裁判所がこの両市長の見解を日本政府の見解と見なさないよう願うという醜悪な請託までしたという(共同通信95年11月7日)。 実に、日本反動層が核武装化のためならいかなる卑劣な行為や謀略も手段を選ばなかったので、日本の核問題はさまざまな汚らわしい秘話でつづられるしかない。 日本の核野望は根こそぎに悪性腫瘍 危険ラインに至った日本の核問題の重大さをよりはっきり知るためには、その根元から探ってみるべきであろう。 核兵器を振り回して「大東亜共栄圏」の昔の夢を実現しようとする日本軍国主義勢力の無分別な野望は決して昨日や今日に根を下したものではない。 顧みれば、それは日帝の冒険的な核兵器保有企図に根を置き、年代と世紀を継いできた。 今から61年前である43年の春、当時日帝の侵略戦争の最高執行者であった東条英機は密かに原爆製造の命令を軍部に下した。彼は空軍本部の総務課長であった川島虎之助を呼び寄せて、自分はすでに核爆弾の威力を熟知しているとのべ、核爆弾の開発が戦争の勝敗を決定すると力説した(時事通信95年7月20日)。 これにしたがって、旧日本陸軍の航空本部では仁科芳雄博士が主導するグループが、海軍では荒勝文策教授を責任者とするグループが核爆弾開発に向けた研究を必死になって進め、44年末から45年初にかけて中国、上海の闇市場で130キロのウランを購入し、核兵器生産に必要な物質的準備を整えるまでに至った(東京新聞96年12月2日付)。(朝鮮中央通信社備忘録)(朝鮮通信) [朝鮮新報 2004.6.4] |