日本の核問題の真相(2) |
すでに高速増殖原子炉もんじゅの正常稼動を開始する前に日本政府は、もんじゅの全面的な運営を通じて2010年まで約100トンのプルトニウムを確保する目標を立てた(ロシアのコムソモリスカヤ・プラウダ1992年2月13日付)。 同時に日本は、フランス、英国など欧州諸国に委託して核廃棄物を再処理して抽出したプルトニウムを大々的に搬入して貯蓄している。 すでに、1970年代と1980年代に日本は密かに英国から10余回にわたって再処理して抽出した1トン以上のプルトニウムを運搬してきた(英国のオブザーバー1993年5月9日付)。 日本は、1992年11月から1993年1月初まで行われた輸送船あかつき丸を通じたフランスからのプルトニウム輸送を機に、大規模で連続的なプルトニウム輸送キャンペーンに着手した。こうして日本は、2010年まで約30トンのプルトニウムを海外から搬入することを計画しているという(米国のAP通信1993年1月5日)。 このような計画について、東京にある原子力資料情報室の高木仁三郎室長は国際反核会議で、日本が21世紀初には米国とロシアよりも多くのプルトニウムを持つことになると明らかにした(共同通信1994年8月3日)。 中国の解放軍報2004年1月15日付は、2010年には日本に原子炉での正常な消耗を除いても62トンのプルトニウムが残ることになると指摘した。 1トンのプルトニウムで長崎型の原爆120発を製造できる点から鑑みると、そして電力生産に必要な量をはるかに超過して貯蓄されたプルトニウムが核兵器の生産に回される点から鑑みると、日本が貯蓄している膨大な量のプルトニウムは、文字どおりいつ爆発するかも知れない「核時限爆弾」「核火薬庫」なのである。 2002年4月6日、保守右翼政治家である自由党党首の小沢一郎が福岡県での講演で、「日本はその気になれば、核兵器を何千もつくれるだけのプルトニウムを保有している。原発にプルトニウムは3000〜4000発分もあるのではないか」と言ったのは決して理由なきことではない。 日本は、近代的な核運搬手段も絶えず開発、完成してきた。 1969年に防衛庁が作成した「自主防衛計画」は、日本が独自の核兵器とそれを運搬する弾道ミサイルを開発、所有することについて公式に明らかにした(アサヒ・イブニング・ニュース1969年6月27日付)。 すでに1950年代からミサイルを開発し始めた日本は1972年に初の空対艦ミサイルASM1の開発に着手して1981年に完成したし、続いて1987年に発射実験を行った地対艦ミサイルSSM1を発展させて1990年に自衛隊に配備した(中国の労働者日報1999年8月26日、27日付)。 この他にも日本は、核弾頭を発射できる155ミリ曲射砲と203.2ミリ曲射砲、核弾頭を積載できるF15戦闘機とFSX爆撃機など各種の核弾頭運搬装備を整えた。 1975年9月に国産初のロケットであるN1を打ち上げた日本は、1976年にN1をN2に、1981年にN2をH1に替えながら、運搬ロケットの性能を相次いで更新した。 これに基づいて1994年2月から1999年11月までの期間に従来のロケットより運搬能力が2倍にも達し、容易に軍事用に転換されうる国産主力ロケットであるH2を8号機まで発射した日本は、続けてH2を改良したH2Aロケットの開発に取りかかった。 こうして2001年8月29日から2002年12月14日までH2Aは4号基まで打ち上げられた。国際環境保護団体であるグリーンピースの反プルトニウムキャンペーン研究責任者は2002年6月25日、東京での記者会見でH2Aの開発技術を活用すれば多弾頭発射装備を確保するのも難しくなく、従って日本がいつかは軍事用に転換された発射体を必ず持つことになるであろうと評した。 これにとどまらず日本は現在、より野心的なロケット開発計画を推し進めている。日本政府と宇宙開発事業団の決定に従って現在、新型H2Aロケットの開発が進められているが、このロケットはH2Aの第1段階の部分を大型化し、下部に2つの基本エンジンを設置して最高4トンを運搬できるように設計されている。このロケットの最初の発射は2007年に予定されているという(日本経済新聞2003年8月14日付)。 このように日本は、いつでも核兵器の生産と使用に入ることのできるすべての物質的、技術的準備を完成した。 さらに問題は、日本がこのような「核の剣」だけでなく「核の盾」まで保有しようと策動している事実である。 1990年代の中葉から「核の盾」になるミサイル防衛(MD)システムの開発に踏み出す機会を今や遅しと狙っていた日本政府は、1999年に誰かの「ミサイル脅威」を口実にして米国とMDシステムの開発に向けた共同研究に踏み出した。そして、それが「純然たる防衛的で、平和国家としての理念にも合うこと」であると粉飾した。これについて朝日新聞1999年5月21日付は、MDシステムが「防衛的なもの」であると強調すればするほど、反発が強まるのが「核の世界の現実」であると指摘した。 「核の盾」を手に入れようとする日本反動層の危険な企図は現執権層のもとで頂点に達した。昨年の12月19日、日本当局は国家安全保障会議と閣議でMDシステムに関連して欺まん的な「共同研究」の看板を投げ捨て、本格的な開発、配備の段階へ移行することを決定した。 これに従って現会計年度予算でMDシステムの導入に1000億円もの莫大な資金が支出され、2007年からは配備が始まることになるという。 上記のように「核の剣」と「核の盾」で完全に武装した新しい危険な核戦争勢力の出現は決して仮想ではなく、遠い未来のことでもない。 それは厳然たる現実であり、時間の問題である。 日本がかつての核災難の島からこんにち、核侵略の島になることを世界はこれ以上、座視するわけにはいかない。 秘話でつづられた日本の核問題 卑劣な謀略と陰謀は日本反動層の気質であり、本性である。 それゆえ、日本軍国主義勢力は核武装化の犯罪的な行跡ごとに驚がくとちょう笑をかもし出す数多くの秘話を残した。 日本の政界と軍部当局が密かに核武装と核戦争のための事前研究と論議を重ね、その結果を文書化、政策化してきた事実は今や秘密ではない。 日本政府は1967年から1970年にかけて核武装の可能性を模索する極秘の研究を行ったが、それは内閣情報調査室が国内の主要国際政治学者たちに委託して行った「日本の核政策に関する基礎研究」であった。このような研究は1995年にも行われた。当時、政府は防衛庁の専門家たちに冷戦終息の新しい環境に備えて日本の核武装問題を研究するよう指示した(朝日新聞2002年6月17日)。 1969年に日本の外務省は内部政策論議の過程で「核兵器製造の能力を保有し、周囲の拘束を受けないようにする」という基本姿勢を定めた秘密文書を作成した。このような事実がそれから25年後の1994年7月31日に明らかにされて内外で大きな物議がかもし出され、当時、外相の河野洋平は仕方なくそのような秘密文書の存在を認めざるを得なくなった(朝鮮中央通信社備忘録)(朝鮮通信) [朝鮮新報 2004.5.28] |