〈全国初の県有地建立−群馬県朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑〉 正しい歴史認識と心からの反省を |
既報のように、日本の植民地時代に群馬県内に強制連行され、過酷な労働を強いられて犠牲になった朝鮮人のための「記憶 反省 そして友好」の追悼碑が、群馬県立公園「群馬の森」に建立され、その除幕式が4月24日、同公園内で行われた。朝鮮人、韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会(「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を建てる会)のメンバーをはじめ、県、高崎市、沼田市など関係自治体、総連、民団の各代表、同胞、学生、日本人ら約250人が参加した。 日本人の手で建碑
「県有地内での追悼碑建立は全国でも例がなく、意義のあること」(境野貞夫「建てる会」共同代表) 日本の植民地支配から解放され60年近くが経とうとする今でも、日本政府は強制連行の事実を認めず罪を隠蔽し、あろうことか、在日蔑視、朝鮮バッシングに余念がなく、果ては軍国化の道を盲進している。 そんな状況下で今回、群馬県で朝鮮人犠牲者のための追悼碑が県立公園内に建立された。 これまで、市(有地)や寺に建てられた例はあっても、県(有地)に追悼碑建立を承認させた例はなかった。それも保守系の大物国会議員を数多く輩出してきた県で。また、日本人の手によって建立されたという点も注目された。 「侵略責任ある我々が」
猪上輝雄「建てる会」事務局長は「真の友好のためには正しい歴史認識、心からの反省が必要だ」と語る。 猪上さんらは1995年、戦後50年を問う群馬の市民行動委員会を結成した。以降、県内各所で日本の侵略戦争の実相を訴える写真展や、強制連行、強制労働の実態を暴く資料を展示した平和展を開催。その過程で、朝鮮人犠牲者のための追悼碑建立の必要性を痛感し、98年、群馬県朝鮮人、韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会を結成。「侵略に責任を持つべき日本人が運動の主体となる」ことを運動理念とした。会員や県民らに追悼碑建立を呼びかけ、募金活動を行い、01年、県に用地提供を請願。碑文などに関して県側と激論を重ね、除幕式を迎えた。 円形の台座に塔(高さ約4メートル)とともに建てられた追悼碑は、高さ約2メートル、幅約4メートル。碑の前面に朝鮮語、日本語、英語で「記憶 反省 そして友好」と、裏面には、追悼碑建立の意味と友好への願いが込められた碑文が、朝鮮語と日本語で刻まれている。 必ず謝罪の言葉を 「率直に言って従軍慰安婦は自ら求めてなったのであり、強制連行はなかったという意見もある」−01年2月に行われた総連中北支部、中北商工会主催の朝・日友好親善新春の集いの席上、招待客の代表としてあいさつした群馬県議会議長(当時)の発言である。参加した日本人は「恥らいを覚えた」という。だが、これは戦後一貫した日本政府の立場でもある。
「建てる会」の請願を受けた県側は、「強制連行」「反省」などの言葉をはずすよう求め、「建てる会」が提出した碑文の原案から、なぜ朝鮮人が強制連行され、犠牲になったのかという歴史経過をカットした文案を提示するなど、容認できない提案を繰り返したという。 群馬県内に強制連行された朝鮮人は6000人以上にのぼる。国鉄吾妻線の工事、岩本発電所導水トンネル工事、中島飛行機(富士重工の前身)後閑地下工場を含め、県内の炭鉱、軍事施設などで強制労働を強いられた。このような事実にもかかわらず、当時の県議会の反対勢力は、最後まで碑文に「強制連行」「強制労働」の言葉を刻むことに反対した。 全国で初めてとなる県有地への建立の意義を重要視した「建てる会」は、「強制労働」ということばを「労務動員」(当時、日本政府が使用した用語)に変更するなどして、合意にこぎつけた。 当時、朝鮮人が強いられた過酷な労働と生活についての原案の記述はほぼ削除され、碑文には一言、「事故や過労などで」と書かれている。中山敏雄運営委員は「碑文に謝罪の言葉がない。今後も活動を続けていこう」と呼びかけた。参加者たちは、碑文についての「心残り」を今後の運動で克服していくことを決意していた。(李泰鎬記者) [朝鮮新報 2004.5.8] |