top_rogo.gif (16396 bytes)

〈食糧支援訪朝記-上-〉 安州に15トン、沙里院に25トン

 依然厳しい状況にある朝鮮の食糧事情。朝鮮やカンボジアへの人道支援を続けるNGOラブ・アンド・ピースでは、3月初旬に再び訪朝し、平安南道安州、黄海北道沙里院に米を届けてきた。藤澤房俊代表(東京経済大学教授)の訪朝記を紹介する。

タイミングが重要

 朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の食糧事情は、この数年大規模な自然災害の被害を受けておらず、ジャガイモなどの栽培によって改善されつつあるが、依然として厳しい状況にある。世界食糧計画(WFP)は昨年末から配給を部分的に中断し、今年1月には270万人への配給を停止した。朝鮮では秋に収穫した食糧が底をつき、春の野菜が出始めるまでの時期が最も苦しい。食糧支援はタイミングが重要である。この時期の少量の支援でも、自ら食糧を確保することが難しい子ども、病人、高齢者が数日でも生き延びることができる。

 第2回6カ国協議直後の3月初旬に、「最も必要とする場所、最も必要な人々」に米を届けるために訪朝した。今回も支援米は朝鮮の食糧貿易会社から中国米40トンを直接仕入れた。子どもたちへの医薬品も購入。デパートにあった薬品はすべてロシア製で、品数も少なかったが、胃腸薬、ビタミン剤、抗生物質などを買った。幼稚園の子どもたちのためにテレビを2台購入した。

 支援物資は現地で調達することが原則だ。物資の持込は現地経済にダメージを与えるからだ。さらに、日本と比較した場合に、現地の方がはるかに安価なことも大きい。支援米は1キロ24円相当で、香港製のテレビは1万円である。薬品の場合も同じく安価であること、現地で使い慣れた薬品が子どもたちに適していることもある。ただ、子どもたちへのお土産だけは、あめ、チョコレート、ボーロなどダンボール4箱分を日本から持参した。

ヤギの乳をミルクに

 3月8日、平安南道安州市に米15トンを届けた。安州市は平壌から車で約1時間、黄海から奥に10キロの所で、新義州への鉄道路線上にある人口約24万人の工業都市だ。19万人が化学工場、製紙工場などで働いている。昨年8月に台風による高潮で80ヘクタールの水田が冠水し、被害をうけた。

 支援米は託児所、幼稚園や病人、高齢者のいる家庭に配給される。内訳は幼稚園に約2トン、託児所に約5トン、病人、高齢者のいる家庭に約7トン。わずか9日間分にすぎないことに胸が痛む。主婦たちがビニール袋や手提げバックを持って配給所に来ていた。そのうち1人の若い主婦は、夫が病気で働けず、小学生の子ども2人、姑と生活していると話してくれた。幼稚園では1日2回125グラムの米を粥状にして食べさせる。おかずはと質問すると、「キムチなど」という答えであった。

 清川江洞第一幼稚園に向かう途中の車窓から市場の全景を眺望できた。初めて目にしたが品物も豊富で、活況を呈していた。人民委員会事務所で出された形の整ったミカンやリンゴも、私たちを歓迎するために市場で購入されたものであったのであろう。苦しいなかで、最大限の接待をされたことを思うと胸が痛んだ。

 翌9日、平壌から南方約70キロの黄海北道沙里院市に米25トンを届けた。安州市と異なり、畑はかすかに青みを帯びており、春の訪れが感じられた。人民委員会事務所の前では、数年前にボムアン水力発電所に発電機を支援したときに知り合った対外活動部長の鄭国珍さんが待っていた。人口27万人のうち労働者は84%。トラクターの部品工場、衣料品工場などで働いている。市では年間5万トンの食糧が必要だが、確保できるのは3万7千トンで、足りない部分を支援に頼っている。ここでも、WFPの支援は1月末から途絶えていた。

 沙里院市では2カ所の食糧配給所を確認し、新養幼稚園、沙里院託児所を訪れた。2カ所とも私たちが届けた支援米の袋以外は何もなく、がらんとした空間が広がっていた。沙里院託児所では、乳幼児に飲ませるミルクがないため、20匹のやぎを飼っており、その乳や豆乳を子どもらに飲ませているとのことだった。

 今回も、朝鮮の抱える経済事情を知ることが出来た。農村部は十分ではないにしても、備蓄もあり、食糧はどうにか調達できる。都市の人々は配給以外に頼るものがない。現在、朝鮮で食糧支援が「最も必要な場所」はこうした都市部であり、「最も必要な人々」は子ども、妊婦、高齢者である。(藤澤房俊、NGOラブ・アンド・ピース代表)

[朝鮮新報 2004.4.1]