長編記録映画「海女のリャンさん」、東京で第1回上映会へ |
解放前、済州島から日本に渡り、今、大阪で一人で暮らす元海女、梁義憲さん(87)の生活を記録した長編ドキュメンタリー「海女のリャンさん」の第1回上映会が東京都渋谷区のウィメンズプラザホール(地下1階)で開かれる。 苦難に満ちた朝鮮近現代史。女性たちの苦闘も並大抵ではなかった。時代との格闘の中で、外敵からヒナ鳥を守ろうとする母鳥のような闘争心なしには生き抜くことが困難だった。映画には激しく、苛烈な時代を生きた朝鮮女性の「闘いの一生」とおおらかな愛が描き出されて、試写会では感動のあまり「泣きっぱなし」だったという人も多い。 映画には梁さんの35年前を記録した白黒の16ミリ映画フィルムが活用されている。朝鮮通信使の研究者、辛基秀さんがカメラマンの金性鶴さんとともに当時、梁さんに2年間密着して撮影した貴重な映像だ。 自分の心の調べに乗せて、カメラの前で淡々と話し続ける梁さんの味のある一人語りは、それ自体が優れた文学作品のようで、観る人の心を引きつけてやまない。 たとえ一円のお金を家に入れなくても、在日同胞と民族のために献身する夫を心から愛し、支え、子供たちにはそんな父を尊敬するよう無言のうちに教えた梁さん。 映画は梁さんの53年ぶりの故郷訪問、北に帰った3人の息子たちを訪ねる20回目の祖国訪問に続いて、1948年の済州島4.3事件の混乱で生き別れとなった南に暮らす娘との再会シーンを映し出す。老いた母の「わたしが悪いことをしたわけでもないし、あの時代を恨むしかない。私は済州島に帰れなかった。おまえも母親を捜せなかった…私は悪い人だよ。子供を離れ離れにしてしまって…」という涙ながらの述懐は祖国を奪われた朝鮮民族の慟哭そのものであり、胸を激しく揺さぶってやまない。 梁さんの亡き夫は朝鮮学校設立のために奔走し、まったく無収入。映画では「アカ仕事でいっさい家にお金を入れなかったよ」と梁さんが語るシーンがある。7人の子供を抱えた梁さんは家計を一人で支えるため、働き続けた。毎年、3月から10月まで家族と離れ、鹿児島から対馬、四国、三重、静岡、と全国の海に潜り続けた。エアポンプを口にくわえ、水深50メートル、時には100メートルまで潜った。一日の稼ぎは2〜3万円、多い時は5万円にもなったが、牛乳一杯飲むこともせず、大阪の家族に送金する梁さん。 また、映像は朝鮮へと帰国する4男との別れの日、涙がとめどなく流れる梁さんを映し出す。母のわが子への愛の深さがしのばれて、観る人の心を涙で濡らす忘れられぬ場面。母は平壌に暮らすわが子へ送金するため、70歳近くまで海に潜り続け、平壌の子供や孫たちが喜ぶ贈物を持って20回も祖国を訪ねる。過酷な労働がたたって足の膝が変形し歩行が不自由な梁さん。それでも子供たちを訪ね続け、息子夫婦にこう諭す。 「(息子に)あまりどなるんじゃないよ。嫁さんにも子供にも静かに話せば、お前の言葉を信用するよ」 「(嫁に)お前が我慢しなきゃだめだよ。我慢するのは女だよ。私も夫が総聯の仕事ばかりして一銭も稼がないから、しょっちゅう喧嘩したよ。でも死んだ人には会えないよ。生きていればこうして会えるじゃないか…」 自らの半生をカメラに向かって語り続ける梁さんだが、語ることで心が癒されたのだろうか、その表情は語るほどに柔和になり、笑顔がはじける。貧しさのために教育も受けられず、字も読めない梁さんだが、海に潜って、子供たちを立派に育て上げ、末っ子は朝鮮大学校の教員になった。映画は過酷な労働に明け暮れる在日朝鮮女性の生活史であり、また植民地支配と祖国の分断で翻弄された家族の歴史を伝える貴重な証言でもある。 この映画のナレーションを担当した俳優の康すおんさんは、「梁さんのまったく打算のない、純粋無垢の愛に心を打たれた。92歳で亡くなった僕のハルモニも海女だったと聞いているが、映画を観ていると本当のハルモニがそこにいらっしゃるような懐かしさでいっぱいになりました」と語っていた。 会場:東京ウィメンズプラザホール(地下1階) 東京都渋谷区神宮前5―53―67(地下鉄表参道駅下車徒歩7分) (朴日粉記者) [朝鮮新報 2004.3.23] |