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〈京都学生シンポジウム結交通信使(ゆうこうメッセンジャー)from KYOTO〉 歴史認識の共有を

高麗美術館と耳塚の2つのコースに分かれて行われたフィールドワーク

 本紙既報のように、日本と朝鮮半島の友好を考える「京都学生シンポジウム結交通信使(ゆうこうメッセンジャー)from KYOTO」が2月21、22の両日、京都大学で行われた。日朝京都学生の会が母体となった同シンポ実行委員会が主催した集いでは、かつて朝鮮半島と日本の関係において善隣友好と交流を築いた朝鮮通信使の歴史をひもとき、「真の友好関係構築」のため歴史認識を共有することの大切さを確認した。また、次世代を担う在日コリアンと日本人学生たちがともに真摯に学び、活発に意見を交わしながら20世紀の不幸な歴史をしっかりと認識したうえで共に行動を起こしていくことの重要さを認識し合った。シンポジウムで行われた基調講演とパネリストたちの発言を紹介する。(まとめ、千貴裕記者)

基調講演

 江戸時代の朝鮮通信使は近世東北アジアの国際秩序形成のうえで大きな意義をもっていた。とくに徳川幕府の時代の1607年から1811年までの12度にわたる朝鮮通信使の来聘は、少なくとも朝鮮に開国を強要する契機となった江華島事件の1875年までの間、日朝および東アジアの「不戦のかけ橋」だったからである。

 最初の使節団は総勢504人に上ったが、高位の官僚である正使、副使、従事官の三使臣のほか、選りすぐりの知識人や文化人が含まれていたことから最初から文化交流を盛んにやろうとの意気込みを感じることができる。そして、日本側もこれを当初から期待していた。

 通信使の往来が続くにつれ、詩文の交換のみに留まらず、東洋医学や暦学、天文学、絵画などさまざまな分野での交流が広がり、その足跡は、今でも通信使が訪れた町々に残されている。善隣交流が続く中、この時期すでに、日本で今日しきりに言われる、異文化尊重と多文化共生の目が芽生えていた。

 1719年、通信使迎接時に対馬藩「真文役」として関わった雨森芳洲は、「日本、朝鮮、嗜好風儀の違い候所ニ、日本の嗜好風儀を以って朝鮮の事を察し候てハ、必ずハ了簡違いに成り申すべく候」(『交隣堤醒』)と言っている。

 つまり、文化の違いを理解することが「善隣」関係の基礎であるということだ。また彼は、他の者が豊臣政権の侵略を「(朝鮮国の)国家再造の恩」などと言ったことに対し、「無名のいくさ」「名分のない戦い」と批判をしている。

 次に重要なことは、通信使の往来の間、両国は対等な関係にあったということだ。朝鮮国から送られた徳川将軍あての国書、同じように朝鮮国王に送られた日本側の国書のいずれにも、互いを見下すような言葉は一つもなく、あくまでもお互いの国家の繁栄の願いを記していた。

 なぜ、このことが重要かというと、近代もしくは近世以前の日本人の考え方は、『日本書紀』にみられる特徴だが、古代以来の朝鮮、あるいは朝鮮の人びとに対する蔑視感が非常に強かったからだ。つまり「蕃国」として、朝鮮は一段下の国だという見方が古代から中世の日本人の歴史認識にしみついていた。

 そうした見方を正し、通信使の往来の過程で交した国書を通じ、徳川政権が朝鮮とは対等な関係にあるということを認めたことは歴史的に見ても意義が非常に大きい。

 そして、通信使の往来による200年に及ぶ文化と交流の歴史の中で両国は、互いの偏見や差別意識を克服し、東アジアの一員であるとの自覚を持つようになった。

 善隣友好交流を通じ、対等な関係を持ったこのような過去を顧みると、日朝の国交正常化が何よりも必要であることを痛感せずにいられない。そして南と北の関係がますます和解へと進み、統一された朝鮮と日本が対等な関係を結び、文化交流も盛んになることが東アジアの未来を保障することになる。(仲尾宏、京都造形芸術大学客員教授)

「植民地支配の歴史ふりかえる」

 植民地支配の問題は過去の問題ではなく、現在、将来の東アジアの平和を考えていくうえで避けて通れない問題だ。

 最近、「創氏改名」や「韓国併合」に関する政治家の妄言が相次ぎ、一部のグループは強制連行もなかったかのような見方を広めようとしている。植民地支配を合理化し正当化しようとする動きや発言は、現在の問題、とりわけ朝鮮との関係の中でなされている。

 こうした状況の中で、植民地支配に関しての日本側の責任を否定しようとする言説(修正主義歴史観)を克服する議論を、@近代日本には帝国主義化のほかに道はなかったのか、A植民地支配の本質は何だったのか、B植民地期の朝鮮人海外流出の背景は何か、C植民地支配はいかなる意味で朝鮮分断の原因となったか―の4つの観点から検証する。

 @について、100年前の日露戦争は日本とロシアが朝鮮半島と中国東北地方における支配権をめぐって戦った戦争、あるいはロシアがこれらの地に進出してくれば日本自体の生存が危うくなるためやむをえず戦った「自存自衛の戦争」だった、ととらえられている。

 しかし、東アジアに対するロシアの侵略的政策のあり方などを考慮して戦争が必然だったのかを考えねばならない。とりわけ当時の朝鮮政府が戦争に対して「中立」を宣言していたにもかかわらず、日本はそれを無視して朝鮮を軍事占領し、後方基地として利用しつつその後の朝鮮支配を固める方向に進んだ。朝鮮の「中立」宣言が国際的に認められなかったにせよ、それを踏みにじったことはやはり日本の選択であった。

 またAについてだが、朝鮮に対する植民地支配の基本方針は「同化」であったというのが一般的な見解だが、その本質は同化プラス差別(差異化)であった。

 精神的、文化的に「同化」しながらも、政治的、経済的、社会的側面では差別を維持し、それにもとづく植民地支配の秩序を強固にすることが、日本の支配のあり方であったと考えるべきだ。「創氏改名」を例にとると、氏の設定を強制する一方、改名の方はそれほど重視されなかった。それは名によって朝鮮人であることがわかるようにしておく意図からであった。

 (B省略)

 Cについては、日本が朝鮮半島を植民地として軍隊を置き支配したこと、中国や米国などを相手に戦争を起こしたこと。これらがなければ、米ソの軍隊が朝鮮半島を占領することもなかったはずだ。(両国が半島の分断占領を決定したことが分断をもたらす最大の要因だが)日本の植民地支配、戦争が分断の一因になったことは否定できない。(水野直樹、京都大学教授)

「日本の戦後補償の検証」

 1945年8月15日、日本が「ポツダム宣言」を受諾したことによって戦争は終結したが、しかし、その戦争の時期があいまいである。

 よく言われる15年戦争とは、満州事変から数えて足掛け15年間の一連の継続した戦争とされている。しかしもし、15年戦争が同宣言の受諾で終わったとすれば、それ以前の朝鮮、台湾は依然として、日本の支配下に置かれていることになるのではないか?

 その「ポツダム宣言」が引用する「カイロ宣言」には、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする、台湾などを中国に返す、という内容が謳われている。

 台湾は1895年の「下関条約」で日本の領土になったが、「ポツダム宣言」受諾により中国に返された。

 日中共同声明が出された72年、田中角栄首相が中国に着いた日の歓迎レセプションで、中国の周恩来首相は、「1894年から半世紀にわたって中国人民は甚大な被害を受けた」とあいさつした。「ポツダム宣言」の内容を引用したのだ。15年ではなく50年の歴史の責任が問われたのである。

 ここで重要なのは、こうした歴史的事実を客観的に押さえるということ。したがって、台湾植民地支配の50年、朝鮮植民地支配の36年が戦後の再出発の原点になる。

 次に戦後補償についてだが、日本のそれに関する基本条約はサンフランシスコ講和条約(51年9月)である。しかし、日本の「過去」と深く関わる中国及び南北朝鮮は同条約に招請されず、いびつな形で条約がかわされた。

 賠償支払いなど、日本の対外支払額は約1兆円(関係国に約6600億円、在外資産の喪失3200億円)である。この金額は、日本が湾岸戦争時に拠出した130億ドル(1兆6900億円)に満たない。いうまでもなく朝鮮民主主義人民共和国には未だ補償金は支払われていない。

 次に戦争に対する国家補償だが、対内的な「日本国籍者」への戦争犠牲者援護には手厚いものがある。現在でも、年間1兆7000億円(97年決算値)の予算が日本人だけ(被爆者は例外)に使われている。また、サミット参加国と比べても、自国民にだけ手厚く補償している国は唯一、日本だけだ。(田中宏、龍谷大学教授)

「戦争責任とは何か」

 日本の戦争責任について戦争責任、戦後責任、侵略責任の3つの側面から提言する。

 戦争責任の概念について、ドイツにおいて最も早くまとまった提議をしたのは哲学者のカール・ヤスパース氏だ。現在のドイツの戦争責任論の基本的な枠組みを定めたとされるヤスパース氏は、ナチスドイツの罪について@法律上の罪A政治上の罪B道徳上の罪C形而上の罪と提議した。

 @は、ドイツが起こした戦争が国際法違反の侵略戦争であり、国際法上裁かれるべき罪であることAは、賠償金の支払いが国の財産、つまり税金から払われることから、国民である以上その責任が罪に問われること。そしてBは、法的には罪がないとされた人でも、自らの良心に照らして問うことでありCは、神の前で罪を問うことだ。

 @ABを日本の戦争責任にあてはめると、法的には東京裁判やB、C級戦犯裁判などで戦争犯罪人が裁かれた。が、その当時に問題視されなかった「慰安婦」問題や731部隊、そして天皇の責任などのさまざまな「裁き残し」がある。賠償問題については、日本もさまざまな形の賠償の有無が問われてきた。

 次に、戦後責任は戦争責任が前提にあって、戦争責任で問いきれず持ち越されてしまった場合でもそれが解決するまで問われ続けることだ。したがって、法律、政治、道徳的な責任が未決の戦争責任として戦後世代に引き継がれた時に戦後責任という形になる。

 例えば、90年代に入って公的問題になった「慰安婦」問題がそうだ。いまだに政府の公式的な謝罪と補償がされていない。この問題で日本国首相や政府が明確な謝罪と補償をしないのであれば、国民一人ひとりに主権者として責任を政府に果たさせるようにする戦後責任が問われると考える。

 東京裁判では1928年以降の日本の戦争責任が裁かれたが、植民地支配についての責任は問われなかった。しかし、一般に植民地支配は平和裏に始まるのではなく、まず戦争が起こり始まるわけだ。

 日本は朝鮮半島を19世紀末からの度重なる軍事侵攻の結果として1910年に併合するが、この時期から絶えず「戦中」であったともいえる。つまり、植民地支配は継続された戦争と考えることができる。

 植民地支配が、戦争責任や戦後責任という言葉によって見えなくなってしまうのが問題である。侵略責任という言葉によって、日本が侵略を開始したその時から45年の敗戦までの責任をすべて網羅することができる。(高橋哲哉、東京大学教授)

[朝鮮新報 2004.3.3]