top_rogo.gif (16396 bytes)

「誠信」へのアプローチ−平和と和解の視点で−

「他者」を一方的に語る暴力性

 昨年、朝鮮の貨客船「万景峰92」号が新潟に寄港した時のNHK報道を強く怒る。

 「下劣で下品な報道。在日朝鮮人が祖国との往来に使っている定期航路をあそこまでおとしめて、嫌がらせする。民衆のレベルで(朝鮮に対して)何をやっても許されるということを、パブリックな放送によって、逆説的に範を垂れた酷い内容だった」

 専攻は現代アラブ文学と第三世界フェミニズム思想。西洋フェミニズムの「普遍的正義」の裏に潜む異なる文化への根深い差別意識に鋭く切り込む。自らが民族、階級的な「加害者」の立場に位置することを自覚し、「他者」を一方的に語ることの暴力性を凝視しながら、強い警鐘を鳴らしてきた。

 「拉致問題以降の日本のメディアは、まるで『鬼の首を取った』かのようなエキセントリックな報道ばかり垂れ流し、根源的にできごとを見ようとしない」。岡さんは9.17以降のメディア状況について、パレスチナといえば「自爆テロ」とも重なる、朝鮮といえば「拉致」という短絡的な形容の仕方ばかりが目立つと語る。

 「米国で起きた9.11については『米国の歴史ではない、人間の歴史に長く記憶される悲劇』と書いたメディア。だが、パレスチナ問題には『あまりにも遠いできごと』としてほとんど無関心を装う。2000年9月以来、自治区というゲットーに閉じ込められ、砲撃され、殺戮されつづけるパレスチナ人の死は『人間の歴史の悲劇』として扱われない」

 アジアの東と西に位置するパレスチナと朝鮮。日本はまさに「東アジアにおけるイスラエル」だとの認識を示しながら、岡さんは「米国の存在によって日本とイスラエルはその植民地主義的暴力の行使に対する責任を自らに問うことを免れ続けてきた」と喝破する。

 「『暴力の連鎖』とよくいわれるが、決して同じ暴力ではなく、パレスチナ人が自爆すると『テロ』と呼ばれ、イスラエルがしてきたことは国家テロと呼ばれない。『暴力の連鎖』とひとくくりにして語られることで、そこに生きる人々の『絶望』やその背景が隠され、テロを口実にしたイスラエルの過剰攻撃を支えている」

 記憶の埒外に置かれ、不条理に殺され続けるパレスチナ難民たちの死。そして、植民地支配の清算も果たされぬまま死を迎えている日本軍の性奴隷を強いられたハルモニたち、強制労働の被害者たち…。今なお人間としての正当な権利を蹂躙された人たちが、人間の尊厳と正義の回復を求めて闘い続けている。

 「朝鮮についても植民地主義の歴史そのものに日本は国民自らが全く向き合って来なかった。アジア・太平洋戦争では米国に負けたという意識にとどまり、『朝鮮や中国で何をしたか』という歴史の根源について、自分の頭で判断してこなかった」

 湾岸戦争、あるいはアフガニスタンへの爆撃、イラク戦争のたびに日本で繰り返される反戦の声、デモ。「戦争反対をいいながら、殺されていっている一人ひとりの人間の生活への無関心が、実は戦争を支えており、この無関心さが日本の有事法制やイラクへの自衛隊派遣を実現させた」。

 岡さんは拉致の洪水報道の最中に、在日朝鮮人の一部の人々が日本人に「謝罪」する様子が「美談」のごとく扱われたことに強い違和感を持つと語る。

 「多くの日本人は国内に人権侵害や抑圧によって苦しむ在日の人たちがいることも知らず、彼らに関わったこともない。彼らの祖国分断の苦痛や悲しみにも無関心である。にも関わらず、一方的に在日に拉致の責任を迫るのは、全く倒錯した論理」と厳しく批判する。この倒錯した論理こそ、パレスチナの悲劇を「遠いできごと」として見る日本人の心象風景に通底するものだと岡さんは語った。

 昨年末には、京都朝高の公開授業を始めて参観し、深い感銘を受けたと目を輝かす。「校長先生ご自身が2世だと語っておられた。学生たちは3、4世だと思う。そんな子どもたちが母語ではない母国語を習得して、国家と言語を相対化するのはすばらしい。言語学でも専攻しない限り、普通では無理なこと。それこそ文科省が言っている『国際化教育』のモデルではないか。それを助成金も出さず、国立大学の受験資格も認めようとせず、嫌がらせを続けるのはもはや許されない」。

 この日、披露された中級部の女生徒の民族舞踊を観た時に、パレスチナ難民キャンプで観た子どもたちの民族舞踊の情景がこだまのように響いたと言う。

 過酷な抑圧社会の中で自らのアイデンティティーを守るため、人々が強く結束してきた共通の歴史に敬意を示しながら、その過酷な生を生き抜く原動力となった「言葉」、「文化」、「伝統」を学ぶことの「とてつもない大切さ」を繰り返し語った。(京都大学助教授、岡真理さん)(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.1.7]